「合衆国憲法のできるまで」

合衆国憲法のできるまで

合衆国憲法のできるまで

子供むけに書かれた本なのだけれど、とても面白かった。

独立戦争後、十三の「邦」(state)をひとつの国にどうまとめるか。
そのために、四か月も夏の暑い盛りを挟んで延々と激しく、深刻な、深い議論をした55人(からだんだん人数は減って42人になったが)の人々の様子が、ユーモラスに、生き生きと描かれていた。

会議が難航すると、議長のワシントンは、独立戦争の時の最も苦しい戦場と同じ厳しい表情でただ黙っていたらしい。

一方、マディソンは、終始しゃべり続け、他の発言のメモを取り続け、憲法制定のために八面六臂の活躍をしたようである。

フランクリンが馬車だと体が痛むと言って駕籠に乗ってやってきたというエピソードと、つまらない発言者の発言の時はすやすやと眠っていたというエピソードと、
そして、憲法ができあがった時に、この憲法は不完全だが、私も不完全な人間であり、ここにいる誰がもが不完全な人間です、どうかこの憲法を無駄にせず、我々のここでなされた議論を無駄にしないようにお願いしたい、という感動的な(?)演説をしたというエピソードが、なんだかとても心惹かれて、面白かった。

憲法ができあがった時の、フィラデルフィアのお祭りの様子も興味深かった。

さまざまな反対意見や困難を調整して、無事に議論によって憲法をつくり、建国に持っていったという点で、アメリカ建国の父たちの力量というのは、本当にたいしたものだと思う。

「建国」と言った時に、おそらく、日本のような自然発生的な国とはぜんぜん違う、制度への工夫や人間の人為的な努力へのイメージが、こういう本を小さいころから読んで育つアメリカ人にはおそらく強くあるのだろうなあと感じた。

アメリカのような人工国家がいいのか、日本のような長い歴史を持つ国がいいのか、というのは、一概には言えない話で、べつにその点ではアメリカをうらやましがる必要はさらさらないのだけれど、

ただ、「建国」という起点が明確で、人間の人為と創意工夫の歴史的イメージがはっきりし、政治への作為や努力の契機が国家の物語の中にビルトインされているという点では、どうしてもアメリカの方が日本よりも政治やデモクラシーには自覚的になりやすいような気はする。

日本は日本の歴史で良いと思うけれど、時にはアメリカの建国の父たちの物語を参照にして、国制への自覚的な態度というものを養ったりするのも良いのかもしれない。

日本も、伊藤博文らはかなりそうした意識はあったとは思うのだけれど、なかなか今もって、必ずしも日本人一般が、国制や憲法について自覚的な高い意識を持っているとは言えないのではないかと思える。

日本の子どもや大人こそ、読んでみたら面白いのではないかと思う一冊である。