現代語私訳『福翁百話』 第一章「宇宙」

今日から、できるだけちょっとずつ、『福翁百話』の現代語訳をしていこうかと思う。


べつに原文も難しくはないのだけれど、いちおう現代人にはちょっと古めかしい明治の言葉づかいの部分もあるので、現代語訳にした方がなじみやすくはなると思われる。


何冊か現代語訳も出版されているようだけれど、ネット上にはなかったようなので、私がちょっとずつ現代語訳をつくってWEB上に公開することも、福沢諭吉の面白さに目覚めるきっかけにもしなるとすれば、無駄ではなくてそれなりにそこそこ意味のある作業にはなりうるかもしれないと思う。


何より、自分自身、あらためて面白い。






現代語私訳『福翁百話』 第一章「宇宙」

第一章 「宇宙」(1)

宇宙は誰かによって造られたものでしょうか。あるいは自然にできたものなのでしょうか。
このことは、さわがしくさまざまな宗教が議論していることです。

その議論はさておき、私は、ただこの今の宇宙をあるがままに観察すると、宇宙の美しさ、広大さ、その構造の緻密さ微妙さ、その法則の確かさに、感動しますし、さらにそのように思えば思うほど宇宙は際限がなく、ただひとり茫然とするばかりです。

このような宇宙の広大ではてがない様子を、神の力という人もいれば、仏の徳という人もいます。もっともなことで、こうした宇宙のさまざまな物質上の様子はありありと人間の五感に触れて心に感じることができるもので、こうした宇宙全体の不思議な様子のことを指す名称がないことはとても不便なことです。
しかし、そうだからといって、私は神についても仏についてもはっきり認識することができていませんので、明らかに宇宙のことを神あるいは仏だと明言することもできません。

ですので、考えてみたのですが、私たちが小さい時から、人間の力を越えた出来事に出あえば、「天」あるいは「天道」などと言い習わし、聞き習わしてきた習慣がありますので、仮にこの「天」という文字を使って宇宙の存在の様子を代表するものとしたいと思います。

ただし、「天」、あるいは「天道」「天のつくったもの(天工)」「天意」などと言う場合の、その「天」とは、私たちが仰ぎみることができる青空のことではありません。また、太陽のことでもありません。ただ、宇宙に存在し現在進行している、はかることができない、はてがない、始まりもなく終わりもなく、無限に大きく無限に小さく、この上なく強く、この上なく頼りになる、とても人間の智恵でははかり知ることのできない不思議な様子のことを、「天」の文字に仮に託して言うだけのことですので、それぞれの人が各自自分で適切だと思う文字があれば遠慮なく各自で取り換えて用いてくださって結構です。

さて、文字については仮にここで「天」と定めることにして話は進めることにしますが、天の広大さと力は、ただただ私たち人間の想像を超えているとしか言えないものです。
人間の見ることができる範囲では、山は高い、海は深い、といったことがありますが、ただこれは地球の上の物のことであって、この地球は太陽系に属する小さな土のかたまりに過ぎません。

また、太陽系の中心の太陽も、さまざまな恒星の中の一つであって、天に輝く星のひとつひとつはすべて太陽でないものはありません。その数は無数であって、数えることもできません。

あの天の川の白い部分は、実はすべて恒星が重なって白く見えているもので、松が生えて並んで並木となっているのを遠くから眺めたらただ黒々と見えるのと同じようなものです。
天の川が限界かと思えば、天の川銀河の外に、白い斑点が見えます。
この斑点も、私たちの銀河系のように、恒星などが集まっているものに間違いありません。

また、その距離を考えて見れば、その斑点に見える銀河はさておくとしても、普通の恒星でも何千万億キロメートルという数でも計り切れないものです。遠いものは、その星から光を放ってその光が地球に到達するまでに何百万年もかかるといいます。ですので、恒星の中には、もうすでに百万年前に本体は消滅していて、今はただその光だけが私たちの眼に映っているものもあることでしょう。また、百万年前に、すでに新しい星となって生まれて、まだ今はその光が到着していないものもあることでしょう。

そうした星の数は限りなく、その生まれて滅する時も知り尽くすことはできないものです。
ですので、「天のつくったもの(天工)」の広大さは表現する言葉も見つからないものです。それと同時に、その緻密さも微細なところまで、同様に筆舌に尽くしがたいもので、表現することが困難なものです。

大きな海の鯨は大きなもので、小さな川の海老は小さいといいますが、この小さな海老も、もっと小さな他のものに比べればその大きさは鯨が海老と比較した時に大きい以上に大きなものです。

一滴の水の中に繁殖する細菌は何億という数で、世界中の人口よりも多いものです。
その細菌の組織を解剖したならば、繊維もあり、栄養を消化したり生殖する器官もあることでしょう。
あるいは、後の時代においてさらに性能の優れた顕微鏡が発明されたならば、今のいわゆる細菌の中に、さらに無数の動植物が棲んでいて、その本体である細菌はそれと比べて大きいと見られることもあるかもしれません。

本当に微かで細かなことの、そのはてしがない様子は、ほとんど終わりがないものだと言ってよいもののようです。
そうではあっても、驚くべきなのは、単にその大きさや細かさではなく、これらを支配している一定不変の規則・法則があって、しかもその法則がまったく誤まることがないということです。
このことこそ、本当に何よりも不思議なことでしょう。
思いを越えたこうしたことを思い想像すればするほど、ただますます人間の智恵の浅薄で弱いことに気づかされるばかりです。