現代語私訳『福翁百話』 第六章 「宇宙への感謝の思いは起こすべきかどうか」

現代語私訳『福翁百話』 第六章 「宇宙への感謝の思いは起こすべきかどうか」


第六章 「宇宙への感謝の思いは起こすべきかどうか」



宇宙・大自然というものは、大いなるからくりで、神秘的な尊さをそなえた不思議なものです。


この地球の上のあらゆる物、人類から始まって、動物や植物、土や砂や塵や埃のようなかすかなものに至るまで、それぞれ適切な位置におさまっています。
四季の変化によってさまざまないのちが成長し、四季が存在しない南極や北極や赤道直下の地域においてもその地で生きることができるいのちが生まれ、成長することができるものはちゃんと自然によって育まれ、それぞれ安らかに落ち着いています。


特に人間にとっての喜びや心地よい人生ということを言うならば、心身の運動を自由自在に楽しみ、仮に他の人や自分自身の無知や愚かさに妨げられることがなければ、自分以外のあらゆるこの宇宙の物はすべて自分のために用いることができる材料となり、その材料によって自分の身体を養うことができます。
また、それらの材料によって、自分の心や精神を楽しませることもできます。


この人間の世界は進歩改良の生き生きした躍動する現場であり、その歩みが無限に進んでいくものなのですから、たとえ今日においては思い通りにならないことが多くとも、智恵や道徳が発達するに伴い将来の希望は十分に満たされることは間違いないものであり、黄金世界の時代を期待しても決して空しいものではありません。
今の時代の人の幸福も、すでに非常に大きなものだと言うことができます。
私たちはこの大きな幸福を享受している身です。


そうは言っても、さらに進んで、「この宇宙の恩に感謝すべきか、そうでないか」という問題、
通俗的な表現で言えば、「ありがたいと言うべきかそうでないか」、という問題に関しては、議論が起こってくるのは当然です。


そもそも、恩というものは、思いやりや恵みに関して述べられることで、なんらかのことに感謝すると言うのであれば、その恵みを与えてくれた相手が存在していなければなりません。


しかし、宇宙という大いなるからくりは不思議にできあがったもので、特にこのからくりを造った存在は見ることができません。


創造主、などと仮に名前をつけてこの宇宙のからくりを呼べば、物事がうまくまとまるようではあります。
しかし、もし創造主というものがいるならば、その創造主を造った存在がまたいなければなりません。
そして、そのまた創造主の創造主がいなければなりません。
こうして際限もないわけで、この宇宙のことはどうしても不思議にできあがった大いなるからくり、と言って終える以外にはどうしようもありません。


宇宙は偶然にできた大いなるからくりであり、私たち人間もまた偶然に生まれて、まさにこのからくりの中のひとつの部分であるわけです。


このことをたとえるならば、エネルギーの源である蒸気の存在している場所は絶対知ることができないのに、からくりだけが不思議に運動しているからくりがあって、人間もそのからくりの中の一本の釘や鉄の細かな部品に所属していて、みんなでともに全体の運転を一緒に行いながら、自分がなぜそうであるのかの理由を知ることもなく、特にこのからくりの運動の恩を感謝するべき相手を探し求めようとしても全然見つからないようなものです。


ただ、大いなるからくりがはてしなく広く大きい様子と、はかりしれない不思議なものであることを観察して、いよいよますます自分自身の存在がちっぽけで無力なものだということを自覚するだけのことです。


ある人たちが言うには、人間が空気によって呼吸し、太陽の光線に照らされて、衣食住によって生きていくことができるのは、天の定めたことが人間にとって道理があるということであり、つまり天の恩なので、その恩を感謝すべきだという説もあります。


たしかに、一見、聞くに値する説のようではありますが、一歩進めて私の意見をこれに対して述べるならば、先にも述べたように、天の道理はただ不思議で自然とそのようになっているだけのことで、この宇宙の大いなるからくりをそうさせているという存在がいるということを証明できません。


それに加えて、恩に感謝するという思いは、相対的に比較する考えより生じる感情です。ですので、こちらとあちらを比較し、その両方に対してその恩があるかないか、どちらの恩がより重いか軽いかを区別し判断し、はじめて何かに対して感謝するという思いも起るものでしょう。


たとえば、私たちが、父母の恩に感謝してありがたいと言うのは、父母は親しく接する自分の父母であり、隣近所のおじさんおばさんではなく、自分にとって特に恩があるからです。


ですので、天の道理も他に何か比較するものがあって、こっちの天は人間にとって都合が良いもので、あっちの天は人間にとって都合が悪いというような事情があり、二つの天が並んでいて、人間は幸運にもあっちの不都合な天を離れて、こっちの好都合な天に支配されている、ということがあるならば、ひょっとしたら特別な恩として感謝すべきかもしれません。


また、もしくは、同じように人間でありながら、こっちの一部の人には天の恩が手厚く、あっちの一部の人には天の恩が薄い、ということがあれば、その手厚い恩を享受している人は特に天に感謝すべきいうことになります。


しかしながら、私たちの観察するところでは、ただひとつの天の道理があるだけで、その恵みの及ぶ範囲においてはいまだかつて一方に手厚く一方に手薄いということは観察されないことですので、特に感謝するという理由がありません。


このように公平なものではなくて、人によって天の恵みが手厚かったり手薄であったりするという差別があるならば、特別の恩を享受して感謝する人がいるのと同時に、一方ではこの恩恵からはずれて怨みを懐く人も必ず出てきます。


ですが、ただ一つの公平で変わらない天の道理は、感謝しようとしても感謝できないもので、怨もうとしても怨むことができないものです。
これは、宇宙のからくりがはてしもなく広く大きいものだからであり、私たち人間にふさわしいことは、無理に宇宙の恩に感謝しないことで、この無理に宇宙に感謝しないということは、特に宇宙を恨んだりしないことと同じ原因からだと自覚すべきです。



また、「人間が人間のいのちを受けてこの世に生まれたのはとてもありがたいことである」、などと言う人もいます。


これはそもそも根拠のない主張なので、あんまり真面目に聴く必要もないことです。


「人間に生まれてありがたい」、という考えは、暗黙のうちに動物と人間を比較して、卑しい動物ではなく尊い人間に生まれたのは幸せだという意味なのでしょう。


しかし、もしこのような理由で幸せだというのであれば、世界中、幸せでない生き物などいません。


魚に向かってあなたは昆虫でないから幸せだと言い、鳥に向かってあなたは魚でないから幸運だと言い、猫に向かって鼠は不幸だねと説き聞かせ、犬に向かって猫は無力だと憐れみの心を説き、猿に向かってウサギは愚かだと笑いかけるようなものであれば、幸福や不幸の違いの話はきりがないものでしょう。


身近なところでは人間同士の中でも、三十才の男女に向かってはあなたは四十才でないのでまだまだこれからの人生が長くて幸せだと言い、四十才の人に向かっては五十才に比べてそうだと言い、五十才に対しては六十才の人のことを言い、六十才には七十才を、八十、九十、死に至るまで、これからの人生はまだまだ長くて幸せだと言えない人はいないことでしょう。


このような比較の話による幸福というものは、結局根拠のないことでしょう。


冷静に普通に考えて見れば、人間が人間に生まれたのは、魚が魚であることのようなものですし、鳥が鳥であるようなもので、三十才の男女が三十才であるようなものです。
特に喜ぶべきことでもないですし、また驚くべきことでもありません。


天の定めたことは人にとって道理があり、天の道理はあらゆる生きものや物体にふさわしい、
このことが、天の道理が天の道理であるということの理由です。
天の恩恵は、特定の何かに偏った私的な恩恵ではないのです。


天の定めたことがもし人にとって道理にかなっておらず、さまざまな事物に適切でないものであれば、この地球の上に今のようには人間もあらゆる物も存在することはできなかったでしょう。
いや、地球そのものがそもそも現在のような状態では存在していなかったはずです。


ですので、天の定めたことが道理にかなっているからこそ、あらゆるものが存在しているということがあるのです。
何らかのものが存在するからといって、天の定めたことが特に道理にかなっているというわけではありません。
何らかのものを見て、特別にこのものを庇護するというようなことは、人間の世界においてなされることでこそあれ、このような小さな知恵や工夫によって天のつくったものを推測するというのは、まだ宇宙の大いなるからくりの偉大さを知らないというものです。


天のからくりは、果てしなく大きなもので、かつ偏りがないもので、宇宙の中のあらゆる存在はおのおのそれぞれに最も適切な場所を得ており、宇宙のからくりははかりしれない完全なものです。


太陽や月や星々の大きなものから、地球をはじめとし、地球の表面の動物や植物や小さな昆虫にいたるまで、どんな存在も、私たち人類のような精神がもしあるならば、それぞれ自分の境遇に安らかに落ち着いて、必ず満足の思いを表現することでしょう。


また、宇宙のからくりに満足すると同時に、感謝しようとしても対象は見つからないので、悠々と自分の与えられた境遇のままに存在していることでしょう。


どうしてかというと、宇宙という大いなるからくりは、太陽や月や星々などをはじめとし、あらゆる存在を漏れなく網羅しており、ほんのかすかな塵ひとつでさえも宇宙のからくりの一部分を成しており、かつ特に感謝する手立てがないという事情は、たとえていえば、人間の身体の中の内臓や筋肉がお互いに人間の身体を成しながら、お互いにその功績や恵みを感謝することがないようなものです。


内臓や筋肉を数えていっても人間の身体にはならないのと同じように、宇宙の中のあらゆる存在を数えていっても宇宙にはなりません。


あらゆる存在の中のどれかを主人として、どれかをお客様とすることができるでしょうか。
とてもそのような区別はできないものです。


私たち人間もまた、この宇宙のからくりの中のほんのかすかな一粒の塵のようなものですので、自ら自分の与えられた立場に満足し、宇宙の大いなるからくりの不思議さを観察し、宇宙のからくりの不思議さを仰いでは宇宙のからくりの偉大さを讃歎し、自らを省みては自分の小ささを自覚するというわけです。
ですが、このようなことによって宇宙のからくりに対する感謝の思いが特に起こるというわけではありません。


ただ、私たちは人間に生まれて、文明を進歩させるという生物であることを自覚しているのですから、あれこれ漠然と宇宙を感謝の対象としようとするよりは身近な人間に対して感謝すべきことをよくよく考えて、過去を思い出しては、先人が私たちのために格別に苦労し努力し文明を管理運営してきた大いなる恩に感謝し、未来を思っては、後世の子孫たちのために努力して智恵や道徳をさらに進歩発達させる糸口を残していこうと、思って生きていくだけのことです。


(以上の議論は、ひょっとしたら凡庸で通俗的な標準以下の人々には理解することが難しいことかもしれません。
そうした人たちが理解することが難しいということは別にいいのですが、半可通の人が、人間の世界には神も仏も存在せず、したがって感謝も宗教的な礼拝もすべて無用なものだと早とちりして、まだ道徳を修めて智恵を磨くことについての大事な部分を会得してもいないのに、横着な人間にすぐになってしまい、そのことによって社会の安寧を害するということが心配です。
結局、感謝の思いは人間の信仰によって起こるものであり、その信仰の本体は迷いであっても感情であっても、とにかく信仰心を妨害せずにあんまり知性の発達していない人たちの間の道徳の心を維持することこそが、今の通俗的な世界においては智恵ある人がなすべきことでしょう。
ですので、この論考はただ哲学者風の思想を描写しただけのことで、このことによって宗教の世界の迷信をすべてなくしてしまおうというような意図は全然ありません。)