ダンマナンダ長老 ハッピーマリードライフ 11章 独身主義について

ダンマナンダ長老 ハッピーマリードライフ 11章 独身主義について

11、独身主義(宗教的理由による独身)について


・独身主義とは何か?


独身主義とは、性的な行為の快楽を抑制することです。
一部の仏教への批判は、その仏教の教えは自然に反していると言って、セックスライフは自然なことだし、それゆえに必要なことであると申し立てています。


仏教はセックスに反対していません。セックスは自然な感覚的な喜びであり、世俗的な生活におけるとても大きな部分を占めています。
人は質問するかもしれません。なぜ仏陀は戒めとして独身主義を提唱したのかと。独身主義は不当で自然に反したことではないかと。
精神的な成長のための独身主義の遵守は、仏陀の時代においては新たな宗教的な戒めではありませんでした。
その他の当時存在していたすべてのインドの宗教もまた、独身主義の実践を導入していました。
今日でさえ、ヒンドゥーカトリックのような一部の他の宗教家は、宣誓して独身主義を遵守しています。


世俗の生活を断念した仏教徒は、自発的にこの戒めを遵守します。なぜならば、それらの人々は、もし人が家族関係のある生活に自らをコミットさせるならば、伴ってくる責務や障害に十分に気付いているからです。
結婚生活は、セックスへの渇望や愛着が心を占めて、誘惑が心の平安と清らかさを覆ってしまう時、精神的な進歩に影響を及ぼし抑えてしまうことでしょう。


・独身主義の意義


人はよく尋ねます。「もし仏陀が結婚生活に反対の説教をしていなかったのならば、なぜ仏陀は守るべき大事な戒めのひとつとして独身主義を主張したのか、また、なぜ仏陀はセックスを避け世俗の生活を捨てるように人々にアドヴァイスしたのか」と。


人は、仏教においては世俗生活の放棄は強制ではないことを忘れてはなりません。
仏教を実践するために世俗生活を完全に放棄することは義務ではありません。
あなたは、特定の宗教的な原則や特質を実践することによって、自らの理解に従って自分の生き方を調整することができます。
あなたは、在家生活の必要に基づきながら、自らの宗教的な原則を進歩させることができます。
しかしながら、より大きな智慧に進み達した時、そして在家の生き方は精神的な価値の究極的な発達と心の浄化に役に立たないと自覚する時、あなたは世俗生活を放棄し、精神的な発達により集中することを選択するかもしれません。


仏陀は、セックスと結婚は究極的な平安と心の浄化に役に立たないので独身主義を勧めました。そして、もし人が精神的な進歩と高いレベルまでの完全性を得たいと願うならば、世俗生活の放棄は必要だと提言しました。
しかし、世俗生活の放棄は、自然に来たるべきですし、決して強制されてはなりません。
世俗生活の放棄は、自我が幻だという性質と、あらゆる感覚的な喜びは苦(満たされないもの)の性質を持つということへの、完全な理解を通して来たるべきです。


・「独身主義」対「責任」 仏陀の経験

 
仏陀は王子として、夫として、父として、出家の前に世俗の生活を経験しました。
そして、結婚生活に必然的に伴うことを知りました。
人は仏陀の出家(世俗生活の放棄)に対し、仏陀は利己的だし冷酷だし仏陀は妻と子を捨てるという点で正しくないと言って疑問を持つ場合もあるかもしれません。
実際には、仏陀は責任感なしに家族を見捨てませんでした。


仏陀は決して妻との間に誤解を持ちませんでした。
仏陀も、普通の人が持つのと同様な、おそらくそれよりも深い愛と愛着を妻と子に持っておられました。
異なっていたのは、仏陀の愛が単に身体的な愛や利己的な愛ではなかったことです。
仏陀は功徳(善い原因)のために情緒的で利己的な愛を離れることへの勇気と理解を持っていました。
仏陀の犠牲(修行)は、仏陀は個人的な必要や欲望をあらゆる時代のすべての人類に奉仕するために退けたという理由によって、ますます尊いものだとみなされます。


彼の出家(世俗生活の放棄)の主な目的は、自分自身の幸福や平安や救いのためだけではなく、人類のためでもありました。
仏陀がもし王宮にとどまり続けていたら、仏陀の奉仕は家族や王国のみの範囲に限られていたことでしょう。
以上のことが、仏陀が、平安と清らかさを維持するために、悟りに達するために、そして無知の中で苦しんでいる他の人々を覚らせるために、すべてを放棄することを決意した理由です。


悟りに達したのちに仏陀が最も最初に行った事のひとつは、自らの王宮に戻って家族たちを覚らせることでした。
実際、仏陀の若い息子のラーフラ仏陀に遺産を求めたとき、仏陀は、ラーフラは最も豊かな富を継承すべきです、それはダンマ(ダルマ、法)という宝です、とおっしゃいました。
このようにして、仏陀は家族に奉仕し、家族たちが救いや平和や幸せへと進む道を整えておられました。
それゆえに、誰も仏陀が冷酷で利己的な父と言うことはできません。
仏陀は実際に誰よりも慈悲深く自己犠牲的だったのです。
仏陀が達した精神的な発達の高みにおいては、結婚は一時的な局面のものであり、一方、悟りは永遠なものであって、すべての人類の善のためになることだと仏陀は知っていたのです。


他の重要な事実は、仏陀は自分の妻と息子が自分がいなくても飢えないと知っていたということです。
仏陀の時代においては、若い男性が世帯主の人生から引退することはまったく普通のことであり、名誉あることだとみなされていました。
家族の他のメンバーは、喜んで彼の扶養家族の面倒をみました。
仏陀が悟りを得た時、仏陀は他のいかなる父親も与えることができないもの、愛着への従属から自由になること、を家族たちに与えることができました。