鉄眼禅師 仮字法語 (全文)

鉄眼禅師の『仮字法語』が、ネット上のどこにもテキストがなかったようなので、タイピングしてみた。
本当に素晴らしい内容と思う。
仏教の最良のわかりやすい入門書にして、その奥義をよく伝えたものだと思う。


鉄眼禅師は、江戸時代に一切経を多大な辛苦の末に出版した人物。
はじめ浄土真宗を学び、のちに黄檗宗の禅僧となった。
黄檗宗は念仏と禅と兼修し、教学や一切経も大事にするそうで、鉄眼禅師によく合ったのだろうと思う。


先日、九州国立博物館であった黄檗展で、鉄眼禅師の肖像画を見て、その清冽なおもざしに胸打たれ、今日やっと報恩のために仮字法語のタイピングを仕上げることができた。
多くの人に読んで欲しいすばらしい著作である。




瑞龍鉄眼禅師 『仮字法語』


『第一章 五蘊


【一の一】


心経にいはく、五蘊みな空なりと照見すれば、一切の苦厄を度すと。
この意は、五蘊本より空にして、なきものなる事をさとりて、その理をあきらかにてらし見れば、一切もろもろの、生死の苦患厄難を度脱して、法身般若の体にかなふという意なり。



【一の二】


五蘊というは、色受想行識の五つなり。
五つのしなことなりといえども、唯(ただ)身と心との事なり。


【一の三】


はじめに色というは身なり。
のちの四つは心なり。
一切衆生は本より涅槃常楽の体にして、法身般若の智身なれども、此(この)五蘊の色心に迷ひ、ゆえに凡夫となり三界に流浪するなり。
五蘊といい、色心の二つといえども、すべてはただひとつの迷いの事なり。


『第二章 色』


【二の一】


第一に、色というは、我この身なり。
また世界の天地草木にいたるまで、形のあり、色のある物はみな、この色のうちなり。
楞厳に、一切衆生無始よりこのかた、己にまよいて、物として、本心を失いて、物のために転ぜらる、といえり。


【二の二】


この意(こころ)は、一切万法はみな法身真如の体なる事を知らずして、かえって天地の中の万物と思いて、その万物の境界にまよいて、物のために、わが心を転ぜられて、さまざまの妄想を起こすという事なり。


【二の三】


また古人、法身は形殻のうちにかくるといえり。
形殻とはこの身なり。
この身は本より法身の体なれども、法身なる事を知らずして、わが身と思えるは、法身を見かくして、わが身と思い、わが身に迷いて、貪瞋煩悩をつくり、ふかく悪道にしずむなり。


【二の四】


本より法身如来なるを、まよいて万物と思い、またはわが身と思うには、二重のまよいあり。


【二の五】


まず一重のまよいは、この身は、地水火風の四大を、仮にあつめて、つくりたてたるものなり。
身の内の皮肉筋骨のたぐいは土なり。
涙よだれ血などは水なり。
あたたかなるは火なり。
出入の息と、うごきはたらくは風なり。
この地水火風をはなれては、わが身というべきものなし。
ただ今なりとも命おわりて、地水火風もとにかえりぬれば、ただ白骨となりて、つゆほどもわが身とたのむべきものなし。


かかるあさましき白骨を、わが身と思いて、千生万劫、このされこうべにつかわれて、地獄の業をのみつくりて、三途にしずみはつるは、おろかにあさましきことにあらずや。


かかる地水火風の、仮なる身なることを知らずして、わが身と思いて、千万年も、死すまじきように思い、わが身ぞとかたく執着す。
これ一重の、凡夫のまよいなり。


【二の六】


さてまた二乗は、凡夫よりも、智恵かしこきゆえに、この身は地水火風の、仮のものぞと、よく見あきらめて、この身をまことの白骨のようにみなし、身においてちりほども、執着の心なし。
かつてこの身のために我執我慢をもおこさず、貪欲瞋恚をもおこさず、いつわりへつらいもなく、ねたみそしりもなし。


かくのごとくのさとりはひらけぬれども、いまだこの身の、法身如来なることをしらず、これによりて、世尊、小乗とて大いにきらいたまえり。
かの法身の当体をさとらざる故に、二乗の智恵にては、仏の内証、菩薩の境界は、いまだ夢にも見ず。


これまた二乗の、一重のまよいなり。
さきの凡夫のまよいとともには二重なり。
二乗は法身にまようこと一重。
凡夫は法身にもまよい、また二乗のさとりしところにもまよう故に、二重のまよいなり。


【二の七】


菩薩は、凡夫と二乗との、二重のまよいをこえて、この身をすなわち、法身如来と見たまう。
これを心経には、色即是空、空即是色と説きたまえり。


色というはこの身なり。
空というは真空、真空は法身法身如来のことなり。
さてはこの身すなわち法身法身すなわちこの身という意なり。


二乗は地水火風、本より法身の体なることを知らずして、地水火風は、非情の物なりと思えり。


【二の八】


菩薩の眼にて見たまう時は、地水火風、みな法身の真体なり。
この故に楞厳には、性色真空、真空性色と説きたまえり。


色というは地の事なり。
性というは、この地は本より、法身の体なるゆえに性色という。
性色なるゆえに、すなわち真空なり。


また同じ経に、水を性水真空、真空性水ととき、火を性火真空、真空性火ととき、風を性風真空、真空性風邪と説たまえり。


これもはじめの地のごとく、水すなわち法身法身すなわち水、火すなわち法身法身すなわち火、風すなわち法身法身すなわち風という意なり。


かくのごとくなれば、地水火風は、もとより地水火風にあらず、法身真如の妙体なるを、二乗と凡夫とは、まよいて地水火風と思えり。


【二の九】


もし地水火風、本より仏なる事をさとりぬれば、わがこの身、はじめより法身なるのみにあらず。
天地虚空、森羅万象にいたるまで、みなことごとく法身の妙体なり。
このさとりのひらけし時を、諸法実相ともいい、草木国土悉皆成仏ともいえり。


【二の十】


草木国土のみにあらず、虚空にいたるまで、法身の体なるを、まよいて虚空とおもえり。
このさとりのひらくる時、虚空とおもいしもきえて、万法一如のさとりとなる。


このゆえに、楞厳には一人真を発して、源に帰すれば、十方の虚空一時に消磒すととき、円覚経には、無辺の虚空、覚に顕発せらるともいえり。
禅家には、大地平沈し、虚空分砕すといえり。
また極楽を黄金の地とときたまうも、この事を凡夫のために、名をかえて説かれたり。


【二の十一】


このさとりをひらきて見れば、わが身はわが身ながら、本より法身の体にして、生まれたるにもあらず。
生れざる身なれば、死するという事もなし。
これを不生不滅といい、または無量寿仏という。
生ずると見、死すると見る、これをまよいの夢と名づく。



【二の十二】


わが身すでにそのごとくなれば、人の身もそのごとし。
人間そのごとくなれば、鳥類畜類、草木土石まで、みなしからずという事なし。


水鳥樹林、念仏念法、念僧の声を出すと、弥陀経にとき、また十方の諸仏、広長の舌相を三千大千世界に出して、法をときたまうと、のたまいしも、この時のことなり。
法華経の中に、諸法は本よりこのかた、つねにおのずから寂滅の相といい、または、法は法位に住して、世間の相は常住なりと、とかれたるも、みなこのさとりのひらけたるをのべられしところなり。


よくよく坐禅工夫して、かかるさとりにかない、色蘊のまよいをこえて、法身実相の体にかなうべし。


『第三章 受』


【三の一】


第二に、受というは、納領を義とすとて、ものをうけおさむることなり。


これは眼耳鼻舌身の五根に、外の六塵の境界を、うけおさむるをいう。
眼には色をうけ、耳には声をうけ、鼻には香をうけ、舌には味(あじわい)をうけ、身には触をうけおさむるなり。


【三の二】


この受というには、苦、楽、捨の三受という事あり。


まず苦受というは、眼耳鼻舌身の上に、このまざる苦しき事をうくるをいう。


楽受とは、眼耳鼻舌身において、こころよくたのしみなる事をうくるをいう。


捨受とは、苦にもあらず、楽にもあらざる事をうくるをいう。
たとえば、道を行くに、手をふりて行くようなる事は、苦にても楽にてもなし。
そのごとく、目に見ても何ともなく、耳にきき、口にあじわいても何ともなきようの事をみな捨受という。


【三の三】


衆生は、この苦受楽受にまよいてくるしき事は目にも見じ、耳にもきかじと思い、ただ楽なる事を、目にも見、耳にもきき、鼻にもかぎ、口にもあじわい、身にもふれなんとばかりおもう故に、人をなやまし、わが身をくるしめ、ぬすみもし、偽りをもいいて、物をむさぼり、魚鳥の命をもたち、世界のさまたげともなる事をたくみて、日夜に地獄の業をつくるなり。


これは楽をうけんと思う一念のまよいの意より、無量のくるしみを生ずるなり。


世上のぬすみをするものの、酒をのみ、さかなをくい、婬欲にふけりて、遊女などを愛し、衣装までに綺羅をつくさんと思う、わずかの楽しみをむさぼる心より、ぬすみをし、いつわりをいい、ついにその悪あらわれて、牢獄にいり、せめにあい、その身命をほろぼすは、すこしの楽をもとむる心よりおこれり。


【三の四】


もとめあるはみな苦なりと、古人のいえるは、この意なり。


たとえば、夏の虫の、火に入るがごとく、淵の魚の餌をむさぼるに似たり。
露ばかりのむさぼりもとむる心ゆえに、あたら身命をほろぼすなり。



【三の五】


一百三十五の地獄の苦、三品九類の餓鬼の飢え、披毛戴角の畜生のすがた、弓箭刀杖の修羅のありさま、一つとして、むさぼりもとむる心よりおこらざるくるしみはなし。


一滴のあまき楽をうけんとて、万劫のからき苦をうくる、あさましき迷いにあらずや。



【三の六】


またこの苦と思い、楽とおもう事は、本より苦も苦にてはなく、楽も楽にてはなけれども、まよいてみずから楽とおもえり。


そのゆえはいかにというに、とび(鳶)からす(烏)、犬・野干(やかん 狐のこと)などは、牛馬などの死して、くさるるを見るか、また人などの死して、ただるるを見ては、これをたぐいもなきものぞと思う故に、まず眼にこれを見てよろこび、鼻にかぎ、口にあじわい、手足につかみては、ますますよろこびて、これを第一の楽しみと思えり。
むさくけがらわしき事かぎりなし。


もしかかるくされものを人にしいてくわしめば、そのくるしき事たぐいなかるべし。


人にくわしむればかほどにくるしきくされものを、とびからすはかえって楽とおもいて、むさぼりくらふ。これ楽にてはあらざれども、その心おろかにいやしくして、苦を楽ぞと思えるなり。


【三の七】 


人間の楽とおもう事も、そのごとし。
おろかなる心ゆえに、妻子におぼれ、財宝にまよい、魚鳥をくうて、たのしみとす。
仏菩薩よりこれを見れば、人の上より、とびからすを見るよりも、なおあさまし。


これをもっておしはかれば、まどえる人の楽とおもうは、苦をもって、楽とおもえるなり。


【三の八】


また人の大罪などをなせし故に、おおやけのいましめにて、その罪人の子やつまを、目の前にてころしつつ、料理てこれをくわしめば、目に見るも、口にくうも、さこそはくるしかるべき。


人の魚鳥をくうも、そのごとし。
さとりの眼より、てらし見れば、魚鳥も法身如来にして、もとより諸仏と一体なり。
また一切衆生を、諸仏菩薩は同体の大悲故に、一子のごとく見たまえり。


【三の九】


かかる一切衆生なるを、まよえる凡夫のあさましさは、よきさかなよとて、肉をさき、骨をくだきて、のみくうて、大いによろこぶありさまを、仏の眼(みまなこ)より見たまえば、さながら鬼にことならず。


わが子のくびをきり、肉をさきて、目に見てもよろこび、鼻にかぎ、口にあじわいて、かえってこれをよろこびとす。
これを顛倒の凡夫という。


【三の十】


かかるしわざを楽とおもえるは、まことは楽にはあらず。
これ大いなるくるしみなり。
かくのごとく苦と楽との二つの間にまようをば、第二の受蘊と名づけたり。


【三の十一】


三界流浪の凡夫のならいは、すべてこの苦楽の間をのがるることあたわず。


そのうえは、さく花を見て楽しみと思えば、ちる時はやがて苦なり。
出る月を見てたのしめば、入る山の端はまたかなし。
逢う事をよろこべば、わかれはかえってうれいなり。
さかえたるをたのしむ人は、おとろうる時またくるしむ。
まずしき人はなきをくるしむ。
富める人はあるになやまさる。
へつらうも苦しみなれば、おごるもげには苦しきわざ、恋しきも苦なれば、うらめしきもまた苦なり。


大いなるかな苦楽の二受。
三界一切の衆生、その中におぼれて、ついに出る事あたわず。



【三の十二】


生ずるを生苦と名づけ、年よるを老苦という。
やまいは病苦にして、死するは死苦なり。
男子にも苦あれば、女人にも苦多し。
農人にも苦なれば、諸職もこれ苦なり。
奉公も苦なれば、牢人はなお苦なり。
臣下も苦しければ、君王もまぬかれがたし。
在家のみくるしきにあらず、出家もまたくるし。


【三の十三】


その中にすこしくるしみのかろくして、やすめるを、まよいて楽と思えるなり。


たとえば、おもき荷物をになえる人の、おろして楽と思うがごとし。
またつよくわずらいし人の、癒えて楽というがごとし。
別に楽というべき事はなけれども、苦のやすまりたるを楽と思えり。


また酒をおみ、さかなをくい、婬欲などにふけりて、これを楽と思えるは、たとえば、かゆきかさをわずらう人の、火にてあぶり、湯にてあらいて、これを楽と思うがごとし。


かゆきはいたきよりはましなれども、かゆきもげには苦しみなり。
あぶるかあらうかして、これを楽と思えるは、苦を楽と思えるなり。


まことはかさをかかぬ人の、あぶりてこころよしと思うさかさまの楽しみはかつてなきこそ、げには楽なりけれど。


このことわりをよくさとりて苦楽の二つをこえぬれば、第二の受蘊のまよいをはなれて、涅槃の大楽にいたるなり。




『第四章 想』


【四の一】


第三に、想というは、思想とて、人々の心中に日々夜々におこる妄想なり。


昼は妄想となり、夜は夢となる。
みな人、夜の夢ばかり、実(まこと)なきいつわりのものにて、昼おもう事は、みなまことなりと思えるなり。
これ大いなるあやまりなり。


まよえる人のおもう事は、昼おもう事も、夢に同じくして、すべて跡なき妄想なるを、知らずして実(まこと)と思えるなり。



【四の二】


妄想というは、妄は虚妄とて、実にはその体なきものにて、あるに似たるものを妄という。
たとえば、影法師のかたちに似、夢のうつつに似たるがごとし。


すべてみななき物なれども、夢のうちにあるににたり。
影法師はなきものなれども、月日やまたはともし火のひかりにむかえばやがて形にかげいできて、形ゆけばかげもゆき、かたちとどまれば、かげもとどまる。
鏡や見ずにうつるかげもそのごとし。
本よりきわめてなきものにて、たしかにあるに似たるなり。



【四の三】


人の妄想もそのごとく、まことはすべてなきものなれども、おもいいだせるその時は、たしかにあるに似たるなり。


にくしとおもい、かわゆしとおもい、うらめしきも、ねたましきも、恋しきも、ゆかしきも、みなことごとく妄想にて、夢見る心にかわる事なし。


わが本心のうちにはかかるさまざまの妄想の、本よりたえてなき事は、鏡のきよきがごとく、また水のすめるに似たり。
この本心をさとらざるゆえに、その本心の上にうつる妄想のかげをとどめて、まこととおもいて、これをかたく執着するゆえに、その妄想いよいよさかんになりて、まよいますますふかきなり。



【四の四】


にくしとおもうも、かわゆしとおもうも、皆みずからが思いなしなり。
この思いなしのところを妄想と名づけたり。


にくきもかわゆきも、思いなしという。
そのいわれは、ただいま、にくしかわゆしと思う人も、いまだ知る人にもならざるさきには、にくくもかわゆくもなし。
はじめて近づきになりぬれども、かりそめのしる人にて、いまだしたしまぬその間は、猶いまだそのしななし。



【四の五】


次第次第になれしたしめば、わが心にかなえる人には、したしみの心ふかくして、かわゆき心いでくるなり。


事にこそよけれ、しなにこそよれ、もし愛執の道などなれば、わが命にもかえぬばかりに、いとおしさのまさるもあり。


かようにいとおしき心になりぬれば、いとおしきが必定にて、何とおもいをめぐらせども、いとおしき心にて、にくきところはさらになし。



【四の六】


さてははや、いとおしきに、きわまりて、たとい百千万劫を経るとも、この心はかわるまじきかとおもえば、さはなくして、そのしたしき中なれども、何事ぞ心にたがう事ありて、あらそいをなして、喧嘩口論におよぶか、あるいは愛執の道などにて、よそに心のうつりなどすれば、はじめいとおしかりし心のふかきほど、今のにくみもまたふかし。
そのうらみにくみのふかきあまりには、ついには身命をうしなわんと思うまでに、うらみもにくみもふかきなり。



【四の七】 


かかる道理をもって、おしはかれば、いとおしかりしも妄想にして、夢のごとくの偽りなるゆえに、にくしと思うもまた妄想なり。


もしいとおしと思いし心いつわりにあらずは、しばらくの間にて引きかえて、にくしとは思わじ。
にくしと思うがまことならば、はじめにいとおしと思わじ。


いとおしきも、にくきも、まことは妄想なるゆえに、その心さだめなく、夢のごとくにうつりかわるなり。


【四の八】


かかる妄想の夢にばかされて、むねをこがし、身をなやまし、つよきは命をもうしなうは、あさましきまよいなり。


いとおしきも妄想なれば、惜しきも欲しきも妄想なり。
あるいはうらみ、あるいはねたみ、あるいはよろこび、あるいはかなしむ。
いずれか妄想にあらざるや。


この妄想の夢にまよいて、たかきもいやしきも、ものをしれるもしらざるも、老いたるも若きも、男といい女といい、地獄の種をつくらぬはなし。



【四の九】


この妄想を夢ぞとしらざる故に、無始久遠のいにしえより、今生今日にいたるまで、その輪廻たえずして、地獄におち餓鬼となり、畜生に生まれ、修羅となる。されば仏になるも、地獄におつるも、その源をたずぬれば、この妄想のあるとなきとなり。


よくよく眼(まなこ)をつけて、この妄想のわざわいをなす事を知り、また妄想の夢のごとくにして、全体なきものなる事をあきらむべし。



【四の十】


世上のおろかなるものの、ぬすみをして、王法のいましめにあい、今生にては、はじをさらし、来生はながく地獄におつるも、物をむさぼる一念の妄想なり。


また人むほんなどをたくみて、天下国家をくつがえさんとはからいて、その身もふかき罪にいり、妻子兄弟眷属までにたえがたきくるしみを見するも、ただ一念の妄想なり。


かかるむほんなどをたくまんと、おもいいたす最初の一念は、たばこの煙などのごとくにして、きわめてかすかなる、ただ一念の妄想なり。


【四の十一】


この一念の妄想を、わざわひの本ぞと知らずして、ひたと思いかさぬる故に、はては一天にみつる雲のごとくにして、いよいよ思いやめがたし。


その最初の一念のとき、やれ妄想よと、あきらめ知りて、胸の内にて消さん事は、何よりもってやすき事なり。


合抱の木は毫萠よりはじまるとて、五抱も、十抱も、まわるほどの大木なれども、その木の生え出づる時は、すこしばかりのきざしなり。
そのきざしの出る時は、ゆびをもってかろくぬきすつるもやすきなり。


もし大木となれる時は、たとい千人万人のちからにても、たやすくは抜きがたし。



【四の十二】


妄想もまた、これに似たり。
最初の一念の時、はやく思い捨つべし。
また妄想のわざわいをなすもそのごとく、ひたと思いかさねて、大いに国家のあだともなる時は、そのわずらいおおきゆえに、大木のごとしというといえども、大木のごとくに、かたちありて、のぞきがたきものにはあらず
たとい思いかさねたる妄想なりとも、はらさんと思いて、思いすつる時は、日の出でて、闇のはるるがごとく、さらに造作はなきものなり。


これを千年の闇室に燈火をともすにたとえたり。
闇久しとて、ともし火をともす時、はれがたきものにはあらず。
妄想もそのごとし。


一念心をひるがえせば、無始久遠の妄念も、刹那があいだにはるるなり。
このことわりをわきまえて、夢の妄想を思い捨てて、さとりの心にもとづくべし。



【四の十三】


この妄念をすてずして、ひたと思いかさぬれば、来生の事はさておきて、今生にて鬼となり蛇となる事ためし多し。
女をとりわけ罪のふかきというは、妄想の心思い捨てかぬる故なり。


百億の三千大千世界も、衆生の妄想よりおこり、一百三十六の地獄も、人々の妄想の火をおこして、百千万劫その火に身をこがすは、あさましき凡夫のありさまなり。
この妄想を思い捨てて、第三の想蘊をこえて、さとりの田地にいたるべし。




『第五章 行』


【五の一】


第四に、行というは、行は遷流を義とすとて、わが心の生滅して、うつりかわるをいうなり。
こころに妄想のおもいあれば、その心刹那もとどまる事なくして、しきりにうつりかわるなり。


たとえば水のながれて、しばらくもとどまらざるがごとく、燈火の刹那刹那にきえて、またたきの間にもとどまらざるに似たり。


人々の朝(あした)より夕べにいたるまでとやかくと思いつづけて、うつりかわるところを、意(こころ)をつけてよく見るべし。
さながら電光石火のごとく、刹那刹那にうつりかわりて、とどまる事はさらになし。


【五の二】


一切有為のまよいの法はみなこれ行蘊の遷流なれば、無常にして念々にうつり、生滅時々におかして、しばらくもとどまらず。


たといあらき生滅の心はおろかなる凡夫の心にもしらるれども、微細の生滅の念々にうつりかわる事は、凡夫二乗の眼(まなこ)に見えず。


その心にかくのごとく生滅あるゆえに、心より生ずる諸法なれば万法もまたうつると見る。



【五の三】


円覚経に雲はやければ月はこび、船ゆけば岸うつると説きたまえるはこの意(こころ)なり。
雲のゆく事はやければ、月のうつりはこぶがごとく、舟の行くこと速やかなれば、岸も山もうつるに似たり。
これ山うつりうごくにはあらず、我のりたる舟の行く故なり。


わが心の雲はやき故に真如の月はこぶと見る。
諸法は本より実相にして常におのずから寂滅の相なれども、三世にうつりかわると見、四時のとどまらざるしなを見るは、みな行蘊のまよいなり。



【五の四】


涅槃経に、諸行無常是生滅法と、説きとまえるはこの事なり。
諸行とは、すなわち行蘊なり。
行蘊の生滅遷流ゆえに、一切万法うつりかわりて刹那もとどまる事なきをいう。


この諸行の有為生滅のまよい、ことごとく滅しおわらざれば、寂滅無為の涅槃の大楽あらわれず、諸行の生滅、滅しおわる時、寂滅の法現前して、万法一如、諸法実相の涅槃の妙楽現前するを、生滅滅已、寂滅為楽と説きたまえり。



【五の五】


かくのごとく、わが身わが心もまた一切の万法も、常住法身の体にして、本より生滅はなきものなるを、この行蘊のまよい故に、真如の体を見つけずして、三界生滅の万法と思えり。


行蘊のまよいをこえぬれば、まずわが心常住にして、うつりかわる事なし。
わが心うつりかわらざれば、諸法もまた常住なり。


さればわが本心のうつりかわらざる事は、たとえば鏡の本体に似たり。
明らかなる鏡の中に終日(ひねもす)かげのうつるを見れば、天をうつし、地をうつし、花をうつし、柳をうつし、人間をうつし、鳥獣をうつし、さまざまの色かわり、しなことなりて、刹那もとどまらざるに似たれども、その鏡の本体は、鳥獣にもあらず、人間にもあらず、柳にもあらず、花にもあらず、地にもあらず、天にもあらず、ただ明々として、くもりなき鏡の全体なり。



【五の六】


わが本心の万法にうつしてらして、その差別にもあずからず、生滅にもかつてうつらざる事を、鏡のたとえにて知りぬべし。
まよえる人は心中にうつる影のみを見て本心の鏡を見る事あたわず。
円覚経の中に六塵の縁影を、自心の相とすと説きたまうは、この事なり。



【五の七】


さてまた鏡にうつるもろもろのかげは全体虚妄にして、なきものなれば、その影をはらいすてて、はじめて鏡を見んと思うは、またきわめて愚人のありさまなり。


花や柳のかげは、うつらばうつしながら、去来もなく、色香もなき、明鏡の全体をよく見るべし。



【五の八】


これを法身と名づけ、真如という。
真はこれ真実にして、偽妄にあらざる事をあらわす。
如はいわく、如常にして、変易なき事を表すと、唯識論にいえるは、この真如の妙体なり。
また金剛経には、如来というは、来るところなく、また去るところなしと、説きたまうも、この法身如来の事をのべられたり。



【五の九】


わが本心すでにそのごとくなれば、万法もまたそのごとし。
万法を天地森羅万象と見るは、これうつれる影なり。


万法の全体はこれ明鏡なり。
影にまようを凡夫といい、鏡を見るを聖人という。


たとえをとりてこれをいわば、金(こがね)にてさまざまの物のかたちをつくりたるがごとし。
その形よりこれを見れば、鬼はおそろしく仏は尊く、老いたるはかたちしわみ、若きはかおうるわし。
鶴は脛長く、鴨は足短し。
松は直く、棘(おどろ)はまがり、柳はたおやかに、花はみやびやかなり。


金(こがね)のかたよりこれを見れば、鬼もこがね、仏もこがね、男女の差別もなく、君臣の高下もなく、つるのながきも金なれば、鴨のみじかきも金なり。
花も柳も松もおどろも、ただ一体の金にして、露ばかりも差別はたてがたし。



【五の十】


万法もまたそのごとし。
真如のかたよりこれを見れば、ただ黄金のごとくにして、毛頭も差別なし。
万法のかたよりこれを見れば、さまざまのかたちわかれたり。


衆生はそのかたちにまよう。
諸仏はその真如をさとる。
真如の体の黄金をさとれば、さまざまの差別のかたちは、あるにまかせて、ただ平等にして一味なり。



【五の十一】


きらうべき鬼もなく、尊むべき仏もなく、親しむべきものもなきゆえに、疎んずべき人もさらになし。
何をかきらい、何をかこのみ、誰をかそしり、誰をかほめん。
うらみもなく、ねたみもなし。
一切もろもろの煩悩は、断ずる事なけれども、おのずからたえてさらになし。


たとえば日の出でたる時、闇をのぞかんとはせざれども、その闇おのずからなきがごとし。
煩悩をのぞき、迷いを去らむとはせざれども、唯一の実相にして、迷いはおのずから不可得なり。
そのかみ、二祖これを得て、安心し、六祖これをさとりて、衣をつたう。



【五の十二】


金剛には三世不可得と説き、法華には諸法実相という。
これ表裏のことばなり。
三世不可得なるゆえに、諸法実相なり。
諸法実相なるゆえに、三世不可得なり。
妙なるかな。
如来の金言、心をとどめて見るべきなり。


また本心の生滅去来をはなれて、常住なるところをよくさとりぬれば、心中にうつるかげもまた常住不滅なり。
そのゆえいかんといえば、森羅万象の差別、古往今来の生滅のかげは、本よりこれ虚妄なる故に、来たる事なく、また去ることなく、生ずる事なく、滅する事なし。


すでに生滅去来なき時はもろもろの差別もまたある事なし。
鏡の影をもって、そのことわりを心得べし。


【五の十三】


かげのはじめてうつるを見る時、その影鏡に入り来るにあらず、はじめすでに入りきたらざる影なれば、今また出さるべきことわりなし。


影に本より出入去来なきゆえに、鏡は本より鏡ばかりにして、ついにかげになりたることなし。


影にならずして、かげをうつす鏡なれば、森羅万象歴然としてたゆる事なし。


これうつするともいいがたく、またうつさぬともいいがたし。
金(こがね)にてつくれる、いろいろのかたちの、鬼にもあらず、また仏にもあらずして、また鬼の形ともなり仏のかたちともなるがごとし。



【五の十四】


あるともいいがたく、なしともいいがたし。
これを如幻の万法という。


幻とは術道にて、もろもろのいきものなどを、つくりいだすをいう。
術道にて、つくりいだせるいきものなれば、あるともいいがたく、なしともいいがたし。


なきものといわんとすれば、眼前に鳥けだものとなりてとびはしる。
あるものといわんとすれば、まことの鳥けだものにはあらず。
あるいは木のきれ、手巾(てのごい)などを、術道にていきものとなしたるなり。



【五の十五】


いまこの三界の、天地万法ならびに人々の身にいたるまでもそのごとし。


一心の本体よりこれを見ればまことに本来無一物にして、一塵をも立せざる、実際の理地なる故、諸仏もなく、衆生もなく、いにしえもなく、今もなく、天にあらず、地にあらず、自にあらず、他にあらず、法界平等一相なり。
金にてつくれるものを、金のかたより見るがごとし。
これを心真如門という。



【五の十六】


万法のかたよりこれを見れば、天地日月位をわかち森羅万象しなことなりて、花はつねに紅(くれない)、柳はいつもみどり、火はあつく水はひややかに、風はうごき、土はしずかに、松はなおく、棘(おどろ)はまがり、鶴はしろく、烏はくろく、天はたかく、地はひくく、仏あり、衆生あり、我といい、人といい、春夏秋冬のおりおり、青黄赤白のいろいろひとつとして乱る事なし。


金(こがね)を見ずして、さまざまのすがたより見るがごとし。
これを心生滅門という。



【五の十七】


一切もろもろの衆生は、この万法の諸相にまどいて、目に見てはむさぼり、耳にききてはあらそい、鼻にかぎ、舌にあじわい、身にふれて、そのものごとに、貪着して、さらにこの万法の、夢幻泡影のごとく、鏡象水月のごとくにして、幻化虚妄なる事を知らず。


胎卵湿化の四生をうけ、生住異滅の四相にうつされ、五欲の境界に着して、六根の罪業をつくり、千生万劫、地獄餓鬼のほのおに身をこがし、生々世々、畜生修羅のくるしみにしずみ、あるいは人間に生ずれども、四大和合の色身を、我とおもい、六塵虚妄の縁影を、心として、生老病死念々におかし、春夏秋冬時々にうつり、みどりの髪たちまち白く、花のかんばせついにしぼみて、朝の露と消え、夕の煙とのぼる。


かかる無常転変の浮世、電光石火のわが身、しばらくもとどまることあたわず。
刹那もしずかなる事なくして、水の時々にながるるがごとく、ともし火の念々消ゆるに似たり。
これまさしく行蘊のすがたなり。



【五の十八】


しかるに衆生の三界に流転するは、万法の幻化を知らずして、その夢幻の六塵に貪着して、十悪五逆の幻業をつくるゆえに、地獄餓鬼の幻果を受く。


わが身本より幻なれば、その心もまた幻なり。
その心すでに幻なれば、その煩悩もなまた幻なり。
煩悩本より幻なるゆえに、その悪業もみな幻なり。


悪業ことごとくげ幻なれば、三途の苦果もこれ幻なり。
三途すでに幻なれば、人間天上もまた幻なり。


三界の生死幻なれば、四生の因果も、ことごとく幻にして、一大法界のその中に、幻にあらざるものある事なし。



【五の十九】


衆生幻業をつくりて、幻苦を受くるゆえに、諸仏幻慈をたれて幻法を説き、幻苦を救って、幻楽を与う。
これを涅槃の大楽という。


この大楽を受くる事は、その幻法を知るゆえなり。
衆生は幻法に迷うゆえに、幻業によりて幻苦を受く。
諸仏は幻法をさとるゆえに、幻苦を脱して、幻楽となす。


幻法にまよう衆生は、夢幻の生滅にばかされて、生死無常の行苦を受けて、行蘊の遷流となす。


幻法をさとる諸仏は、夢幻の生死を涅槃となして、行苦を滅して常楽にのぼる。


いかんしてか生滅の行苦をもって涅槃の常楽となすとならば、これ別に造作にあずかるにあらず。
ただ万法の遷流、生死の法を徹底夢幻と知ればなり。



【五の二十】


このゆえに円覚にいわく、幻と知ればすなわち離る。
方便をなさず、幻をはなるればすなわち覚なり。
また漸次なしと。


そのゆえいかんとなれば、三界万法すでにこれ幻なるゆえに、幻は本より生ずることなし。
すでに生ぜぬ万法なれば、いずれの時か滅する事あらん。
すでに生滅去来にあずからず、あに不生不滅の涅槃にあらずや。
すでに不生不滅の体なれば、何ぞ是非得失の沙汰あらん。


本より生死なきゆえに、涅槃というも仮の名なり。
生死にも涅槃にもあらざれば、煩悩菩提のわかちもなく、衆生諸仏のへだてもなし。


生死のわずらいは煩悩なり。
煩悩なきがゆえに菩提もなし。
煩悩もなく生死もなければ、何をか衆生と名づくべき。


衆生のさとりたるを諸仏という、本より衆生にあらざるゆえに、いまさとりて、諸仏というべき事もなし。
されば悟という事は、かくのごとく人々の、本より迷わずして、ただ本のすがたなることをたしかに見つくるをいうなり。



【五の二十一】


円覚経に始知衆生本来仏と、説かれたるこの意(こころ)なり。
本来成仏とは、本より仏という意なり。
本より衆生にあらざる故に、仏というべきようもなけれども、本より迷いの衆生にあらざることを、しいて仏と名づけたり。


このゆえに生死もなく、涅槃もなしといえども、凡夫のはかりがたき、奇妙のさとりの体、なしという事にはあらず。



【五の二十二】


楞伽経に、たとえば、牛にあらざる馬の性のごとく、馬にあらざる牛の性のごとしといえるはこれなり。


この意(こころ)は、たとえば牛にあらずといえばとて、馬の性なきにあらず。
馬にあらずといえばとて、牛の性体なきにはあらず。


いま生死涅槃にあらず、煩悩菩提にあらず、衆生諸仏にあらずというもそのごとし。
これみな牛にあらずというがごとし。
かように生死涅槃等の、牛にあらずといえばとて、不思議奇妙のさとりの、馬の性体なしという事にはあらず。



【五の二十三】


またたとえば、夢みる人にむかいて、汝が見るところの物は、一切みなまことのものにはあらず。
天地と見るも、実の天地にあらず。
草木国土と見るも、まことの草木国土にあらず。
我と見、人と見、苦とおもい、楽とおもう。
みな実(まこと)の事にあらずといわん時、かの夢見る人、これを聞て、さては天地もなく、草木国土我人もなくして、空なるところを、さめたるまことのところといわんかというに似たり。


それにもあらずこれにもあらずというは、夢の内に見る事は、すべて跡なき妄想にて、真実の物にはあらざるに、夢の心には、まことの物ぞとおもいて、その物にとりつきて、苦とおもい、楽とおもうゆえに、その夢をさまして、さめたる時の真実の天地世界を、知らしめんためなり。



【五の二十四】


いま迷える人に向て、生死涅槃にあらず、衆生諸仏にあらずといえば、さては一向断無にして、空なるところを、まことのさとりというかと思えるは、夢見る人の、わが見るところ、すべて真実にあらずといわば、天地世界空にして、すべてなきところを、真実さめたる境界かというかというに似たり。
さとりて迷いの夢、はたと一度さめざれば、そのさとりのありさまを、たしかめ知る事あたわず。



【五の二十五】


法華の中に、如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等と、説きたまえるは、まよいの夢の、さめたるときのすがたなり。
これを、法は法位に住して、世間の相常住という。


また衆生見劫尽、大火所焼時、我此土安穏、天人常充満といえり。


この意(こころ)は、まよいの衆生の眼には劫末になりて、この世界のやぶるる時、無間地獄より火おこりて、初禅天までやきほろぼすと見る時、釈迦如来の御眼よりは、この世界安穏にして、天人も人間もみちみちて、園林もろもろの堂閣、種々のたからの荘厳ありて宝樹には華果多く、衆生その中に遊楽す。
諸天天鼓をうちて、つねにもろもろの伎楽をなし、曼荼羅華をふらして、仏をよび大衆に散じ、そのほかに無量のたのしみありと見たまう。


同じひとつの水なれども、餓鬼の眼には火と見るに、人は本のごとく水と見る。
まよわざれば三界の火宅にはあらずして、清浄の浄土なれども、まよいて三界六道と見る。
餓鬼の水を火と見るがごとし。



【五の二十六】


△問ていわく、こまかなるさようのことわりを聞けば、おおかたははその道理心得られて、わが身も本より仏にして、世界もむかしより、浄土ならん事うたがいなし。
しかりといえども、有為の世界のうつりかわるを見、わが身も生老病死にあずかる時は、生滅の行苦いまだ離れざるに似たり。
いかんじてかこの行苦を離れて、不生不滅にいたるべきや。



【五の二十七】


△答えていわく、さようの心得はこれ信解とて分別にておしはかりて、すこしさとりのさりさまを心得たるに似たれども、いまだまことのさとりひらけざる故に、無明の夢さめやらず。


しかる故にそのことわりをあらましは知りながら、夢幻のわが身において、我執我慢もはなれず、憎愛是非もなお深し。
夢幻の境界にまよいて、ややもすれば、得失利害の心をおこして、三途の業をつくる。
みな夢中のすがたなり。



【五の二十八】


円覚経に、いまだ輪廻をいでずして、円覚を弁ずれば、かの円覚もまた、輪廻に帰すといえり。


この意(こころ)はいまだその心さとらずして、その分別の心をもって、かのさとりの円覚の体を弁別し、思量すれば、かの円覚もまた輪廻となるという意なり。


真実にさとりの体にかなわんと思わば、一切の知解情識をすてて是非邪正に心をとめず、銀山鉄壁にさし向かうがごとくにして真実堅固の志をおこし、一則の話頭を提撕して、前後左右をかえりみず、寝食寒暑を忘れて、疑い来り、疑い去らば、時節因縁到来して、忽然として曠劫以来の無明の漆桶を打破せんとき、はじめて長夜の夢さめて、掌(たなごころ)を打て呵々大笑して、本来の面目をあらわし本地の風光をあきらめ、千生万劫の本意をとぐべし。
ただ大真実の心をおこさずんばこの無明をやぶりがたし。



【五の二十九】


むかし長水尊者、楞厳の清浄本然、云何忽生、山河大地の文を疑いて、瑯琊の慧覚和尚に問うていわく、いかなるかこれ清浄本然、云何忽生、山河大地と。


瑯琊答えていわく、清浄本然、云何忽生、山河大地と。
長水言下において、桶底の脱するがごとく、忽然として大悟したまえり。
これまさしくこの行蘊をこえられしすがたなり。



【五の三十】


楞厳の文の意は、清浄本然とは、この世界は本より、清浄本然の浄土なりと。
楞厳会上において、世尊説きたまいし時、富楼那尊者問ていわく、如来ののたまうがごとくこの世界、清浄本然の浄土ならば、いかんぞたちまちに、山河大地もろもろの有為の相を生じて、かくのごとく遷流生滅するやという意(こころ)なり


長水そのまえは行蘊の夢さめざりし故に、この文にふかく疑いあり。
しかる故にこれをあげて問いたまえば、瑯琊和尚の答によりてはじめてかの夢をさまして、清浄本然のところを見られしなり。


むかし僧あり。
古徳に問ていわく、起滅してとどまらざる時いかん。
古徳答ていわく、直(じき)にすべからく寒灰枯木にしさるべしと。
また自余の古徳に問ていわく、起滅してとどまらざる時いかん。
徳答えていわく、瞎漢、いずれのところかこれ起滅すと。
僧言下において大悟すといえり。
これみな行蘊によって本文の田地にかなえる人のありさまなり。



『第六章 識』


【六の一】


第五に、識というは、これすなち色受想行の四つのもといとなりて、三界六道を生じて人々の身より森羅万象、天地虚空までを生ずるまよいの根本なり。
この識は全体本心にて、体には差別なしといえども、無明のわずらいある故に識という。


もし無明のわずらいなければ、すなわち本心なり。
識は幻夢のごとくただこれ一心と圭峰ものたまえり。



【六の二】


識という時は、幻とて術道をするものの、木のきれなどを取て、いろいろの鳥けだものとなすがごとし。
まさしくいきものとなりてとびはしるといえども、木のきれはもとの木のきれにて、鳥けだものとはならず、ならずしてなれるように見する、これ術道のちからなり。


識ものそのごとく本心を無明の術道のちからにて、しなかわれるように見すれども、本心の体はかわらず。


またたとえば、識は人の眠りたるがごとし。
眠らざれば夢を見る事なし。
眠るゆえにさまざまの夢を見ていろいろのなきこともあるように見するなり。


識もまたかくのごとし。
本来の本心にて無明の眠りのなき時は、三界の差別もなく、六道のしなもなく、地獄もなく、天堂もなく、娑婆という事なきゆえに、何に対してか極楽ともいわん。


生死本よりなきゆえに、涅槃という名もつけがたし。


煩悩はじめよりおこらざれば、菩提をもとむべき事もなし。


もとより衆生とならざれば、仏となるべきようもなし。
ついにまよわぬ心なれば何をか今さらさとるべき。


一切みなかくのごとくにして、いうにいわれぬめでたき本心の体なり。


このところをしいて名づけて本分の田地といい、本来の面目という。
この本来の面目に無明の眠りつきたるところを根本無明という。
これ迷いのはじめなり。


この根本無明の眠りつきしゆえに、さまざまの夢を見る。
まず虚空ありと見る。
これすなわち夢のはじめなり。



【六の三】


楞厳経に、晦昧空をなすともいい、迷妄に虚空ありともいえるはこれなり。


虚空ありと見るゆえに、虚空の中に天地あり、天地の中に万物あり、万物の中に人間あり、人間の中に我あり、人あり、鳥類あり、畜類あり、月あり花ありと見るよりして、にくきものあり、かわゆきものあり、このましきものあり、このましからぬものあり。


これよりして、ほしきものあり、おしきものありて、八万四千のあらゆる煩悩の夢を見出して、この煩悩によりて、殺生をなし、ぬすみをし、婬欲をおかし、妄語をいい、そのほかあらゆる、身になす悪しきしわざは、かの煩悩にくるわされて、つくりだす悪業なり。


このもろもろの悪業をつくれば地獄か、餓鬼か、畜生か、三つ悪道におちて、無量億劫の間、さかんなる焔に身をこがされ紅蓮、大紅蓮の氷に骨をとじられ、あるいは餓鬼道の、たえがたきくるしみに身をしずめて、百千万劫、飲食の名をだにもきかず。


水に会うて飲まんとすれば、水かえって火となりて、喉をやくがごとくのくるしみをうくるも、みなことごとく無明の眠りの内の夢のありさまなり。



【六の四】


もしまた人ありて、その悪業をひるがえして、五戒十善をたもてば、三悪道をのがれて、人間天上の生をうけて、来生めでたき身と生まれ、その善業の高下によりて、それぞれの楽を受く。


しかりといえども、これみな三界のうちにして、無明の眠りの、夢の内の事なれば、楽というも、まことの楽にはあらず。
根本は苦なれども、まよいて楽と思えるなり。


まして人間にも八苦あり、天上にも五衰ありて、そのくるしみたえせねば、意をとどむべきところにはあらず。
すみやかにいといすつべき世界なり。



【六の五】


もしまた人ありて、このことわりをあきらめて、人間天上の楽(たのしみ)はたのしみには似たれども、六道輪廻のうちにして、有為無常の楽なればこれまた無明の夢の中のあだなる楽ぞと心得て、大真実の信をおこして、坐禅工夫をなす時、その心のうちに善、悪、無記の三性のしなおこる。


善というは、よき事をおもう心、悪というは、あしき事の心にうかぶをいう。
無記というは、善にもあらず、悪にもあらず、茫然としてうかうかとしたる心なり。


この三しなの念おこりてやむ事なし。
あるいは悪事を思わざれば、善事を思う。
善事を思わざれば、悪事を思う。
もしすこしの間など、善念も悪念もおこらざれば、無記とて、何ともなき茫然としたる心にて、うかうかとしてあるものなり。


その悪念は、地獄、餓鬼、畜生の種、善念は人間天上の種、無記はいまだ善悪のわかちのなき愚痴無明のすがたなり。



【六の六】


かように善悪無記の内を離れざる間は、いまだ坐禅の熟せざる初心の人のありさまなり。


かかる念のおこるにもかまわず、いよいよこころざしをふかくして、退屈の心なく、ひたと坐禅する時は、坐禅の心(ここ)ちと熟して、時として善念もおこらず、悪念もまたおこらず、うかうかとしたる無記の心にてもなくして、その心すみわたりて、とぎ立てたる鏡のごとく、すみわたれる水のごとくなる心、すこしの間生ずる事あり。


これは坐禅の心もち露ほどあらわれけるしるしなり。


かようの事あらん時はいよいよすすみて坐禅すべし。
ひたとおこたらず坐禅すればはじめはしばらくの間すめる心になりたるが、漸々にその心すみわたりて、坐禅のうち三分が一すむ事もあり。
あるいは三分が二すむ事もあり。


あるいははじめ終わり澄みわたりて、善悪の念もおこらず、無記の心にもならず、はれたる秋の空のごとく、とぎたる鏡を台(うてな)にのせたるがごとく、心虚空にひとしくして、法界むねのうちにあるがごとくおぼえて、そのむねのうちのすずしき事、たとえていうべきようもなくおぼゆる事あり。


これははや坐禅を過半成就せるすがたなり。
これを禅宗にては打成一片といい、または一色辺といい、大死底の人ともいい、普賢の境界ともいう。



【六の七】


かようの事しばらくもあれば、初心の人ははやさとりて、釈迦達磨にもひとしきかと思えり。
これ大いなるあやまりなり。
かくのごとくなりたる時はこの第五の識蘊という。


楞厳経に湛入合湛は識の辺際なりと説きたまえるはこの事なり。世上につよく坐禅する人ありて、かようのところを見つけては、はやさとりぞと心得て、臨済徳山をもあざむき、われ本来の面目を得たり、本分の田地にいたれりとののしり、人にも多く印可し、棒を行し、喝を下し、祖師のふるまいをなす。


これはいまだ仏祖の内証を知らず、一心の根源にいたらざる人なり。



【六の八】


いまだここまでもいたらずしてもろもろの道理を心得て、さとりと思い、あるいは一切空なるところをさとりといい、あるいは目口をうごかし手足をはたらかすものなどを、さとりぞとて、人にもゆるす人あり。
これみなはるかに仏祖の心にへだたりたる人なり。


いまこの識に迷いてさとりと思える人は、さようのあさき心得の人には大いにかわれり。
真実もあるゆえに、このところまでは修行しのぼるといえども、この識をこゆる事を知らずして、識に迷いて本心とす。
いまだ修行のいたらざるところある故なり。



【六の九】


楞厳経にいわく、かくのごとく分別すべてなき時、色にあらず、空にあらず、拘舎離等がくらまして冥諦とするも、もろもろの法縁をはなれては、分別の性なしと。
またいわく、たとい見聞覚知を滅して、内に幽閑をまもるも、なおこれ法塵分別の影事なりといえり。



【六の十】


古徳釈して、この内に幽閑をまもるところ、そこばくの賢聖を埋没しおわる。
宋儒の喜怒哀楽のいまだ発せざる時の気象を見るに、ただこのうちにあり。
老子の虚極を致し、静篤をまもるも、またただこのうちにあり。
仏教の中の阿羅漢、辟支仏の入るところの定、さとるところの果も、またただこのうちにありといえり。



【六の十一】


これみな、見聞覚知の分別をはなれて、無念無心なるところをさして仏も祖師もかくのごとくのたまえり。


無念無心にして晴れたる空のごとくなるところは、衆生の第八識とて、三界六道の迷いをつくりだせる根本なり。


このところよりして天地虚空、その中の有情非情のさまざなしなを思いいだせり。
眠れるがゆえにさまざまの夢を見るがごとし。


三界唯識と仏の説きたまうはこの義なり。
また第八識は根身、種子、器界を縁ずといえるもこの事なり。
また楞厳経に陀那は微細の識なり。習気暴流を成ず。真と非真と迷わん事をおそれて我れつねに開演せずと説きたまえり。


【六の十二】


古徳釈して仏もし一向に真と説きたまわば、衆生進修せずして増上慢に堕せん。
もし一向に不真と説きたまわば衆生自身を撥棄して断見を生ぜん。
このゆえに凡夫二乗に対しては、つねに説きたまわずといえり。



【六の十三】


この識まことの本心に似て、また本心にてはなきゆえに、おろかなるものに向かっては容易には仏も説きたまわず。


そのゆえはこの識を、すなわち真実ぞと説きたまわば、衆生そのところに留まりて、もはや満足せりと思いて、すすんで修行せじ。
もし真にあらずと説きたまわば、衆生さては一向空にして、本心という事はなきかと思いて断無の見におちて、真実に本心をさとる事あたわじ。
しかる故にこのところ大事にて容易には仏も説きたまわずという意なり。



【六の十四】


この識は全体本心なれども、無明の眠りつきたるゆえに、すなわち本心とはいいがたし。
本心とはいいがたけれども、またもろもろの妄想は、はやさりてなきところなれば、一向の迷いにてもなし。
もし修行の人、このところへゆきつきなば、いよいよ精を出して修行すべし。
やがてまことのさとりのあらわるべきなり。


【六の十五】


たとえば夜のあけて、日のいまだ出ざる時のごとし。
夜の闇ははやはれぬれども、いかなる子細にてかように闇はれて世界みなあきらかになりたりということを知らず。


もしこの闇のはれたるを見て、はや事は成就したりとてさしおかば、日輪を見る事あたわじ。
もし妄想の闇はれて、むねのうちのあきらかにすみわたりたるを見つけて、もはやさとりたりと思いて、さしおかば、般若の日輪は見る事あたわじ。


【六の十六】


妄想の闇ははれぬれども、いまだこのところにてはなきぞと心得て、すておきもせず、またよろこびもせず、さとりをまつ心もなく、ただ無念無心にしてひたとつとめ行けば、忽然として真実のさとりあらわれて、万法を照らす事、百千の日輪の一度に出でたまうがごとし。
これを見性成仏ともいい、大悟大徹とも名づけ寂滅為楽ともいえり。


この時三世の諸仏に一時に対面し、釈迦達磨の骨髄を知り、一切衆生の本性を見、天地万物の根源に徹す。
そのよろこばしきことたとえていうべきようなし。
このゆえに楞厳の中には浄きわまりて光通達す。
寂照に虚空を含む。
かえり来て世間を見れば、なお夢中の事のごとしといえり。


【六の十七】


このさとりひらけぬれば、大地虚空のことごとく法性法身の、寂照不二の体にして、森羅万象一物として、わが本心にあらざるものなし。
このゆえに楞厳には見も見縁も現前の境に似たれども、本よりわが覚明なりといえり。


【六の十八】


見とは、わが六根の中の眼のひとつをあけて余の五根を知らしむ。
見縁とは、六塵の境界、一切万法なり。
これわが身も万法も唯一の本心、妙覚明の体なる事を説きたまえり。
これを大地を変じて黄金となし、長河を攪(かい)て酥酪となすという。
これ真実の極楽世界なり。


【六の十九】


むかし僧あり。
雲門に問うていわく、不起一念の時如何。
雲門いわく、須弥山。


また僧あり、趙州に問う、一物不将来の時如何。
趙州いわく、放下着。
僧いわく、一物もすでに将来(もちきた)らず。
この何をか放下せんと。
趙州いわく、放不下ならば担取しされと。
その僧言下において大悟す。


あるいは不起一念といい、一物不将来という。
みなかの無念無心の田地にいたれる僧なり。
このところをさとりぞと心得て、雲門に問い、趙州に問う。
これ病なることを知りて、かくのごとく答えられしなり。
この須弥山、放下着を透得せば、はじめて本分の田地にいたり、雲門趙州に相見すべし。
よくよく工夫してこの田地にいたるべし。


このゆえに古人いわく、懸崖に手を撒(さつ)して、みずからうけがって承当すべし。
絶後にふたたびよみがえらば、君をあざむく事を得じといい、また百尺の竿頭に一歩をすすめ、十方世界に全身を現ずといえる、みなこのさとりの、あらわるる時の事なり。
よくよく坐禅工夫して、この境界にいたるべし。
あやまりて野狐の窟に入ることなかれ。



【奥書】


仏ののたまわく、方便の説をのぞいて、ただ仮名字をもて、衆生を引導したまうとなり。
この国のかなのもじをもちゆる事、西天の梵文にことならず。


かるがゆえに、聖徳太子、しなてるやの御ことの葉をもて、片岡の達磨大師にまみえたまい
(太子の御歌、しなてるや かたおかやまに 飯にうえて ふせる旅人 哀れおやなし。達磨御返し、斑鳩の 富の小河の たえばこそ わがおおきみの 御名は忘れめ)、


嵯峨の皇后、山のあなたの和歌をつらねて、もろこしの鹽官国師にかなひたまう
(橘のきさき嘉智子の歌、もろこしの 山のあなたに たつ雲は ここにたく火の 煙なりけり。僧慧萼御ことのはをたまわりて、もろこしにわたりて、鹽官の斉安国師につぐ。
国師賞嘆して仏心印を伝ふ。
その弟子義空禅師をまねきて、檀林寺をたてたまえり。
この国にはじめて禅宗を伝ふるこれなり)。
これみな権化垂迹の教外の文字をしめすなり。


されば禅宗はじめてこの国に伝わりてよりこのかた、大和言葉をもて心要をのぶる人いくばくなし。
わずかにただ無住禅師の沙石集、夢窓国師の夢中問答の書のみなり。
そのほかあまたあれど、みなこえまどかなる物にもあらず。


ここに三百余とせの後、津の国難波の瑞龍寺開山、鉄眼和尚という知識あり。
ふかく黄檗の堂奥にいたりて、木庵和尚にしたがい、臨済三十三世の法燈をかかげそえて、隠元禅師の真孫ときこゆ。
もとより禅教ともに通じて、説法花を感ずるばかりになん。
若かりしむかしより、大蔵の金文をきざむ事を願とす。


わが欽明天皇の御時、百済よりはじめて仏経をわたせり。
ついで聖徳太子弘めたまう。
また応永の末つかた、足利の将軍義持、蔵版を朝鮮にもとめて、しきりにこの国につたえんとすれども得がたく、ついに全蔵の板をそなえず。
今に至るまで鏤刻の功をはげむ人なし。
実(まこと)にこの国法宝をかけり。


このゆえに師常にいわく、伝え聞く、もろこしには二十余副の蔵板ありて、あるいは官庫に安置し、あるいは名藍に鎮護し、あまねく世にひろめはるかにこの国に及ぼして今にたゆる事なし。
この国もとより仏法をうやまう事、異域におとらずといえども、ただこの宝蔵をながく伝うる事あたわず。
誰かこれをうらみざらむや。


師幸にうれしくも太平の世に生まれて桑門の身をやすんず。
国恩なにをもてかむくいん。
ここにおいて力をつのり、志をばこいて、所々に講筵をひらき、専に修善をすすむ。
国こぞりて化を慕い、その得になつくこと仏にことならず。
ついに十とせあまり三とせを経て、天和のはじめ事おわりぬ。


たずぬるそのかみ、隠元祖師渡海の時、将来の唐本を印版の為にさずけらる。
上足龍渓禅師、随喜讃嘆してこころざしをつのらしむ。
また唐僧、大眉和尚といえるあり。
すめるところの東林と名づけし、幽邃の地をかえて、檗山今の宝蔵院となさしむ。
おのおの薩埵の悲願に乗じて、力をあわされしいと尊し。


木庵和尚のいわく、この国今禅門の中に、経論を円解して、大いに仏心宗をおこすものは、ひとり汝のみ。
正法を万世に伝えて、宝祚を千秋に祈り奉らんは、ただこの法宝の功力に過べからず。
よろしく弘通すべしとて、したしく許可したまえりとぞ。
これより年月ますますつとめて功をとぐ。
いよいよその名かくるる所なし。


延宝六とせ文月中の七日、ついにこの事いともかしこく、仙院に聞こえあげて、表をすすめて奉るべきよしになりぬ。
あまつさえ近江の国の勅願の御寺、正明の道場に御経をおさめたまえり。
まことに三宝をあがめまします事、聖徳清和のむかしにつぎ、漢明粱武の跡にもこえさせたまいけり。


しかりて、とおく東(あずま)にくだり、大樹に達したてまつるとて、とかくする程に、はやく他方を化せんとの縁にやありけん、その事半なるに、難波に帰りのぼりて、明る弥生の末の二日、涅槃を示したまう。
その哀惜のあまり、双樹の場(にわ)におもむくもの、おおよそ十万人にあまれり。
世にまれなる事と聞え侍りし。


ひとり受業の高弟宝洲和尚をとどめて、今瑞龍の禅席をあたためてさかんに説法おこなわるる事、また他にことなり。


されば師の願心やふかく、龍天の加護やむなしからざりけん、滅後すでに十とせの頃、思わざるに関東に聴達し、大樹より瑞龍の二代に命じて、請経あるべきのよし、ことさらに侍従信興につたえさせたまう。
国の大夫人もまたついで請ぜられしかば、いよいよ法門のかがやきを増しぬ。


おもうに仏をあがめ、法に帰依したまうこと、国家永久のまもり、万民快楽の基なり。
生前といい、滅後といい、大功まったくとげ、宿願満ちぬるかな。


先に遺録二巻をあつめて、梓にいのち長うす。
この法語は、かつてひとりの女人の、禅にこころざしふかきが為に、書きつづられしものなり。


ある人いわく、幸にこの書あり。
あらたにうつしてうばそく、うばいに施して、同志のいましめとなせと。
このいさめにまかせて、つとめて筆をそめ、いささかそのあらましを、奥にしるすものならし。


こいねがわくば見る人きく人、はやく坐禅の道をまなびて、ことごとく邪見の林をいでて、西来の祖意を悟り、東流の正脈をむなしうせざれということしかり。


みをつくし たてしちかいも みつ塩に
くちぬ難波の 寺ぞさかゆく


かしこしな 空とふ鳥の 跡とめて
教の外の 法の教えは


かかげても 見せばや人に 末の世を
あまねくてらす 法の燈(ともしび)


元禄四とせかのとのひつじの秋、葉月の末の二日、弟子のうばそくそれがしつつしみてこれをしるす


(以上 鉄眼禅師仮字法語)