【ことばを離れたあまねく光り輝く蔵についての経】 (『大乗離文字普光明蔵経』 現代語私訳)

【ことばを離れたあまねく光り輝く蔵についての経】
(『大乗離文字普光明蔵経』現代語私訳) 


 唐の時代、インドから来た三蔵法師・ディヴァーカラが翻訳す。


 このように私は聞きました。ある時、釈尊はマガダ国の首都・ラージャグリハのグリドラクータ霊鷲山)の中に、無数の菩薩たちとともにおられました。この無数の菩薩たちは皆、偉大なる智慧を持ち、巧みで上手な仕方で精進努力しており、言葉を超えた瞑想修行を成就し、すぐれた説法や説明のための言語能力を獲得しており、原因と結果の法則に照らして道理と非道理を見極めることに常に誤りがありませんでした。よく心身を整え、さまざまな結縛からの解脱を具え、常にサマーディ瞑想を喜び、かつ大悲(カルナー)の心を保ち続けていました。慚愧を自分の身とし、智慧を頭とし、多くの生きとし生けるものを助け利益し、あたかもその存在は世の中にとって激流の中の宝の島のようであり、物事の善と不善の特徴を明瞭に認識し、言葉に執着せず、しかも言葉を巧みに使う能力がありました。真俗二諦(絶対的真理と世俗的な相対的な真理)の両方をよく洞察しこだわりやさまたげがなく、深く物事のあるがままの姿を明らかに認識しながら、しかもひとつひとつの物事にとらわれることがありませんでした。的確に物事を識別し、しかも識別したことをそれ自体として実体のあるものとして受け取ることがなく、輪廻の連鎖の中の迷いの生死を厭いながらも、常にこの世界・社会・生命を守り、あらゆる場所に赴いて活動し大いなる名誉がありました。真理の中で静かに暮らし、生きている今現在は身体を持ってはいるけれども、すでに迷いの輪廻の中の三界(欲界・色界・無色界)から解脱し、しかも現実の中で努力して生きとし生けるものを助け救っていました。あらゆる生命に対して教え導き、志は常に賢く善行為を行うことにあり、いかなる生命にも平等に慈悲の心を持ち、しかも執着せず、自らの心も他の人々の心も清らかにしないということがありませんでした。このようなはかりしれない功徳(善い行為・善いカルマ)を実現していました。それらの菩薩(生きとし生けるものを助け救うために悟りを求めて修行する仏弟子)たちの名前は、勝思惟菩薩(すぐれた思索の菩薩)・法震音菩薩(真理を説く声が雷のように鳴り響く菩薩)・妙身菩薩(妙なる身体の菩薩)・法輞菩薩(真理の車輪のたがのような菩薩)・弁積菩薩(物事において何が積もっているのか的確に判断できる菩薩)・持地菩薩(大地を保ち縁の下を支えるような菩薩)・持世菩薩(この世界を保ち守る菩薩)・大名称菩薩(大いなる名誉のある菩薩)・具諸弁菩薩(さまざまな言語能力を備えた菩薩)・千容相菩薩(さまざまな形の存在を包容する包容力のある菩薩)・功徳山菩薩(山のように大きな功徳のある菩薩)・蓮華眼菩薩(世俗の泥の中にいながら清らかな蓮のようなまなざしを持つ菩薩)・蓮華面菩薩(世俗の泥の中にいながら清らかな蓮のような顔や表情を持つ菩薩)・珠髻菩薩(宝石のように美しい髪をした菩薩)・妙音菩薩(声の響きが妙なる音楽のような菩薩)といいました。このような菩薩たちは、皆あたかも少年少女のように若々しく、容色は美しく端正で、この無数の菩薩たちの中でも最も尊敬されている人々でした。
 その時、観自在菩薩(観世音菩薩)は、ガンジス河の砂の数ほどの将来仏になることが決まった(正定聚)菩薩たちと一緒にいました。殊勝見菩薩(とてもすぐれた見解の菩薩)は、数知れない帝釈天の神々と一緒にいました。虚空蔵菩薩(宇宙のような広大な徳の菩薩)は、はかりしれない数の菩薩および四天王天の神々と一緒にいました。大勢至菩薩は、何億もの梵天の神々と一緒にいました。遍吉祥菩薩(あまねく幸福をもたらす菩薩)は、無数の才媛の美しい女性たちと一緒にいました。普賢菩薩・不空見菩薩(空の真理を知った上で正しく現象を観察し人々のために働く菩薩)・星宿王菩薩(北極星のように確固として揺るがない菩薩)・離疑菩薩(真理への疑いを離れた菩薩)・息諸蓋菩薩(欲・怒り・疑い・掉挙後悔・惛沈睡眠などの蓋(さまたげ)を瞑想で停止させた菩薩)・薬王菩薩(薬の中でも王の薬のような菩薩)・薬上菩薩(最上級の薬のような菩薩)たちは、それぞれ無数の菩薩たちと一緒にいました。その菩薩たちの中に、また無数の如来たちがいました。その如来たちは、自からその身を変じて菩薩の姿となっていました。尊者サーリプッタ・マハーモッガラーナマハーカッサパ、そのような偉大なる阿羅漢たちは、それぞれ無数の声聞たちと一緒にいました。那羅延(ヴィシュヌ)等の無数の神々、乃至ガンジス河の砂の数ほどの国々や太陽や月の神々が、光輝いてのこりなく釈尊のところに訪れて来ました。釈尊のおられる場所に辿り着くと、それらの神々の光は、墨の色が純金に比べられるようなもので、釈尊の前ではかすんでいました。婆楼那龍王徳叉迦龍王阿那婆達多龍王・美音乾闥婆王・無擾濁迦楼羅王は、それぞれ無数の配下の龍やガンダルヴァ乾闥婆)やガルーダ(迦楼羅)を引き連れてこの集まりに入って来ました。あらゆる方角の世界のガンジス河の砂の数のようなあらゆる菩薩は、皆その自分が元いた場所で釈尊に挨拶し教えを請い、同時に他の皆とこの場所に辿り着きました。それぞれさまざまな世にも稀なすばらしい供養の品々を持参し、釈尊や諸々の菩薩たちにお布施し終わってから、この集まりの中において結跏趺坐しました。


 その時、勝思惟菩薩(すぐれた思索の菩薩)は、座より立ち上がって、右の肩を脱いで、右膝を地面につけて、合掌を釈尊に向けて言いました。
 「世尊、私はいま、二つの事柄を質問したいと思います。どうか私に慈悲の心でご許可ください。」
 釈尊は勝思惟菩薩に告げておっしゃられました。
 「善き仏弟子よ、問いたいことがあれば、あなたの思うとおりに問いなさい。如来は一部の人々のためにこの世に現れたわけではありません。無数の生きとし生けるものを助け救うためにこそ現れたのですから。」
勝思惟菩薩はこの答えを聞いて、すぐに釈尊に問いを申し上げました。
 「世尊、どのような事柄を菩薩は離れるべきでしょうか?どのような事柄を菩薩は常に守るべきでしょうか?どのような事柄が如来が覚った所なのでしょうか?(この菩薩の生き方と如来の覚りの二つの事柄について教えてください。)」
釈尊はおっしゃられました。
 「すばらしい、すばらしい、善き仏弟子よ、あなたは仏の力も加わって、私にこのような深い事柄を質問しました。よく聞き、よく聞きなさい。この事柄によくよく思いを集中させなさい。今あなたのために説きましょう。


 善き仏弟子よ、ひとつの事柄があります。菩薩が離れるべき事柄です。貪欲です。この事柄こそ、菩薩たちが離れるべき事柄です。さらにもうひとつの事柄があります。菩薩が離れるべき事柄です。怒りです。この事柄こそ、菩薩たちが離れるべき事柄です。さらにもうひとつの事柄があります。菩薩が離れるべき事柄です。愚かさ(無知)。この事柄こそ、菩薩たちが離れるべき事柄です。さらにもうひとつの事柄があります。菩薩が離れるべき事柄です。自我を実体としてあると思いこみ、自分に執着することです。さらにもうひとつの事柄があります。菩薩が離れるべき事柄です。真理への疑いの心です。さらにもうひとつの事柄があります。菩薩が離れるべき事柄です。おごりたかぶった心です。さらにもうひとつの事柄があります。菩薩が離れるべき事柄です。なまけです。さらにもうひとつの事柄があります。菩薩が離れるべき事柄です。暗く沈んだ心と眠気です。さらにもうひとつの事柄があります。菩薩が離れるべき事柄です。愛着・執着の心です。善き仏弟子よ、このような事柄は、菩薩たちが離れるべき事柄です。
 善き仏弟子よ、あなたはまた私に問いました。どのような事柄を菩薩たちはいつも守るべきかと。善き仏弟子よ、菩薩たちというものは、自分がして欲しくないことを他の生命にしないものです。もし菩薩たちがこの掟を守れば、それがそのままさまざまな仏や如来たちのあらゆる戒めを保つことになるのです。なぜでしょうか。自分の生命を愛しているのに、殺生をしてはいけません。自分の財産を大事にしているのに人の財産を盗んではいけません。自分の家族を大切にしているのに他人の家族を侵害してはいけません。このような実践は、皆ひとつの事柄と言えます。善き仏弟子よ、もし如来のことばを敬い従う心があるならば、このひとつの事柄をいつも思い記憶すべきです。どのような事柄でしょうか。生きとし生けるもので苦しみを望んでいるものは一切ありません。生きとし生けるものは、幸せを求めて全ての行動をしているのです。そして、菩薩が悟りを求めるのも、自他すべてに幸せを得させたいと思うためです。善き仏弟子よ、このような意味において私はこの言葉を説きます。自分がされて嫌なことは、人にもしない、と。この事柄を、菩薩たちは常に守りなさい。


 善き仏弟子よ、あなたに質問されたことはもうひとつ、どのような事柄が如来が現に覚った所なのかということですね。善き仏弟子よ、わずかな事柄も、如来が覚ったという所はないのです。なぜでしょうか。如来の覚りというものは、覚ったという固定した場所が無いからです。善き仏弟子よ、あらゆる現象は生じたということがない、これが如来の覚りです。あらゆる現象は滅するということがない、これが如来の覚りです。あらゆる現象において二つに分けてとらえることから離れる、これが如来の覚りです。あらゆる現象は実体があるものではない、これが如来の覚りです。善き仏弟子よ、さまざまなカルマはその生命自身のもの、これが如来の覚りです。あらゆる現象は原因と条件によって成立する、これが如来の覚りです。原因と条件による現象は電光のように素早く瞬間瞬間に変化している、これが如来の覚りです。そのように原因と条件によって変化し続けているからこそ自業自得のカルマの法則が貫いている、これが如来の覚りです。善き仏弟子よ、あらゆる現象の真実のありかたは【ことばを離れたあまねく光り輝く蔵】(普光明蔵)である、これが如来の覚りです。善き仏弟子よ、なぜ真実のありかたを【ことばを離れたあまねく光り輝く蔵】と呼ぶのでしょうか。善き仏弟子よ、絶対的真理と世俗的・相対的な真理の二つの事柄への智慧は、このことによって生ずるからです。母が子どもを抱くようなものです。ゆえに「蔵」(貯蔵所)と呼びます。もし智慧が生じた時は、逆にこの智慧がその本源である蔵を照らします。このように現象の真実のありかたを、今度は智慧般若波羅蜜、悟りの智慧)がおさめとるようになります。この理由から、【ことばを離れたあまねく光り輝く蔵】(普光明蔵)と呼びます。善き仏弟子よ、あらゆる存在は幻のようなものです、炎のようなものです、これが如来の覚りです。善き仏弟子よ、あらゆる現象の本当の姿は同じひとつの解脱です、これが如来の覚りです。同じひとつの解脱を【ことばを離れたあまねく光り輝く蔵】(普光明蔵)と呼ぶのです。善き仏弟子よ、あらゆる現象はひとつの姿である、これが如来の覚りです。ひとつの姿とはどういうことでしょうか。つまり、あらゆる現象は、来ることなく、去ることなく、原因がなく、条件がなく、生じることなく、滅することなく、取ることもできず、捨てることもできず、増えることもなく、減ることもない、ということです。善き仏弟子よ、あらゆる現象のそれ自体としての姿には本来はさまざまなものに分けることのできる存在はないのです。このことは、何かの喩えだと思ってはなりません。言葉でよく説き明かすことができる所ではありません。このような事柄が、さまざまな如来たちの現に覚っているところなのです。」


 釈尊がこの【最も美しい、ことばを離れたあまねく光り輝く蔵についての教え】(荘厳王離文字普光明蔵法門)を説法された時に、十地(歓喜地・離垢地・発光地・焔慧地・難勝地・現前地・遠行地・不動地・善慧地・法雲地)の菩薩によって見られる微かな塵の数ほど多くの生きとし生けるものが、皆悟りの心を起しました。また、同じように微かな塵の数ほど多くの生きとし生けるものが、皆声聞や辟支仏の心を起しました。また、地獄の中にいる同じように微かな塵の数ほど多くの生きとし生けるものが、皆地獄の苦しみから離れて人間や天界の世界に生まれることができました。はかりしれない数の菩薩が、歓喜地(正定聚)を得、はかりしれない数の菩薩が幾百千ものすぐれたサマーディ瞑想を獲得しました。はかりしれない数の生きとし生けるものが、のこりなく幸福と利益を受け、本当に充実した甲斐のあるいのちを生きることができるようになり、空しくいのちを過ごす者が無くなりました。
 その時、釈尊ラーフラ釈尊の息子)に告げておっしゃられました、
 「善き仏弟子よ、私のこの教えの要旨をあなたは把握し保ちなさい。」
この言葉を釈尊が説かれる時、この集まりの中に九十億の菩薩がいました。仏の偉大なる力を見て、座っているのをやめて、釈尊に申し上げました、
 「世尊、私たちもこの釈尊の説かれた教えの要旨を把握し保つことを誓願します。この世界(サハー国土、忍土)において、終末の時代にあっても、この教えを聴くにふさわしい者がいるのを見つけてはそのためにこの教えの要旨を説き広めます。」
その時、四天王(持国天増長天広目天毘沙門天)が釈尊に申し上げました、
 「世尊、もしこの経典をよく保つ者があれば、我々四天王はその者を護ります。その志や願いをすべて満たすことができるようにします。なぜならば、この経典を保つものは、まさに真理の容器だからです。」
その時、釈尊は、この集まりの場にいる生きとし生けるものをすべてみそなわして、この言葉をおっしゃられました。
 「みなさん、私のこのとても深く広く稀有な教えは、功徳が少ししかない(少善根)の衆生は聴き受けることができません。この教えを聴き受けることができる者は、そのまま私の側近くで奉仕し私を供養することと同じです。また、このうえない悟りを担うことと同じです。その人は、真理を説き明かすための言語能力において滞りやさまたげがない自由自在の力を得ることができ、必ず浄土に往生するでしょう。その人は、臨終に必ず阿弥陀仏が観音・勢至など二十五菩薩や浄土の聖衆を連れて親しく目の前に現れて来迎することを得るでしょう。私はいまこのグリドラクータ霊鷲山)にあって、菩薩たちに囲まれています。これらの菩薩たちも、臨終の時において、そのように阿弥陀仏の来迎を見るでしょう。この教えを聴き受けた人は、すでに尽きることのない真理の蔵を得たと知るべきです。この人は過去世を見通す智慧を得るでしょう。この人は地獄・餓鬼・畜生などの悪道に堕ちることはもはやないと知るべきです。善き仏弟子よ、私はいまこのあらゆる世界・生命が信じることが難しい教えを説きました。もし五逆罪(父や母や阿羅漢を殺すこと、仏の身体を傷つけて出血させること、サンガ(出家者の集まり)の和合一致を破壊し、分裂させること。無間地獄に落ちるカルマ)を犯した衆生がいたとしても、この経典を聞き終わり、書き写し、保ち、読誦し、他の人々のために解説すれば、あらゆる業障(悪いカルマ)はすべて消滅し除去することができ、いのち終わっても地獄・餓鬼・畜生の悪い世界に生まれ変わる苦しみを受けずに済みます。その人はさまざまな如来や菩薩たちによって守られ慈しまれ念じられる存在となります。どこにあってもどこに生まれても、五体が健全に満足で、深い仏縁を受け、五眼(肉眼、天眼(三世十方を見る眼)、法眼(現象の差別を見分ける眼)、慧眼(真理の平等を見抜く眼)、仏眼(前の四つをまどかに具えた悟りの眼))を清らかに曇りなく持つことができるでしょう。善き仏弟子よ、この経典を聴き受け保つ人は、一言で言えば、すでに仏道を成就した人だと私は見ます。」
 釈尊がこのお経を説き終わられると、勝思惟菩薩をはじめとしたすべての菩薩、およびさまざまな声聞、神々や龍神などの八部衆(神々、龍、ヤクシャ(夜叉)、ガンダルヴァ乾闥婆)、阿修羅、ガルーダ(迦楼羅)、キンナラ(緊那羅)、マホーラガ(摩睺羅迦))、すべての者たちが大いに歓喜してこの教えを信じ、受け、そのとおりに実行しました。



(『大乗離文字普光明蔵経』原文)
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20110601/1306925397