ヨハネによる福音書再読

今日は、昨日から読み直し始めたヨハネによる福音書を読み終わった。


通読は、たぶん十数年ぶり。


ヨハネによる福音書は、なんといえばいいのだろうか、他の三福音書とはかなり違う雰囲気があって、非常に不思議な力のある本だと思う。


読みながら、かつてはさらっと読み流してしまっていた箇所に、たびたび深く感動させられた。


二章二十五節あたりを読んでいて、イエスは「覩見」していたんだなぁと、今回はじめて深く考えさせれた。


また、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(8.34)という言葉も印象的だった。


あと、とても印象的だったのは、十三章三十六節の「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」という言葉に、とても深いペテロへの慈悲を感じた。


たぶん、昔はさらっと読み流していたのだと思うけれど、この言葉は、相手が今は受けとめることや実現することができなくても、その将来の可能性を認め、待っている、限りない慈悲が背後にある言葉だと思う。


あと、今回読んでいて印象的だったのは、大祭司カイアファの「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」という11章50節の言葉だった。
これは、いわゆる「政治的思考」だと思う。
そして、それが実は、非常に罪深い思考なのだということを考えさせれた。
一匹の迷った羊を探しにいくイエスの愛と、カイアファのこの思考方法は、極めて対照的だということを、今回読んでいてはじめて考えさせれた。


あと、今回読み返していてはじめて気づいたのは、ゲッセマネで片耳を切られた人には、ちゃんと「マルコス」という名前がヨハネ伝に記されていることに驚いた。
調べてみたら、ルカ伝でこのマルコスの耳の傷をイエスが癒し、それが最後の癒しの業だったようである。
にもかかわらず、どうもマルコスは格別回心するわけでもなかったようで、その後に何のエピソードも残っていないそうだ。
しかし、そういう人にも、最後まで慈悲をそそいだのがイエスの生き方だったのだろう。


マルコ伝も素晴らしいが、ヨハネ伝も本当にすごい力のある書物と思う。

七度倒れても再び立ち上がる

「七転び八起き」はてっきり日本のことわざと思っていたが、箴言の中に全く同じ言葉があった。
偶然の一致か、あるいは聖書起源だったのだろうか。


もちろん、若干は言葉が異なる。


箴言のものは以下のようなものである。


for though the righteous fall seven times, they rise again,
but the wicked stumble when calamity strikes.
(Proverbs 24.16)


神に従う人は七度倒れても起き上がる。神に逆らう者は災難に遭えばつまずく。
箴言 第二十四章 第十六節)


神に従う人、正しい人は、七度倒れても再び起き上がり、曲がった人、神に逆らう人は、災難が打てばすぐにつまずく。


「七転び八起き」と違って、主語がより明快になっているところと、そうではない人との対照で述べられているところが、似ているとはいえ、日本のことわざとは異なる箴言のこの節の特徴だと思う。


この前、ちょうどリンカーンの伝記やイクイアーノやフレデリック・ダグラスの自伝を読んだ。
彼らの人生を思うと、この語句そのものと思う。


リンカーンは貧しい家に育ち、苦学独学するものの、自分がつくったわけでもない膨大な借金を抱えることになり若い間中呻吟した。
また、選挙にはたびたび落選した。
にもかかわらず、そのつど再び立ち上がり、ついに大統領にまでなった。
大統領になってからも、あらゆるバッシングにあったうえ、息子が病気で死ぬという痛恨の出来事があった。
それでも再び立ち上がり、決意を新たにして奴隷制廃止を成し遂げ、南北戦争という国難を乗り越えた。


イクイアーノやフレデリック・ダグラスは、悲惨な奴隷の境遇に置かれながら、自由になる希望を持ち続けた。
何度も運命に翻弄され、瀕死の重傷を負わされたり、あと一歩で自由の身になれるところをもっとひどい状況に引きずり戻されたりということを何度も繰り返した。
それでも再び立ち上がり、ついに自由を勝ち取り、自由になった後は奴隷制廃止のために努力し続けた。


彼らを見ていると、人間はいくたびも倒れたり挫けそうな時があっても、不屈の意志さえあれば必ず再び立ち上がることができると教えられる気がする。


日本の歴史を見ても、内村鑑三などは随分何度も苦しい目にあい、本人自身絶望のどん底に陥る時もあったようだけれど、それでもそのたびに再び立ち上がったのは、信仰の力があったからだろう。
田中正造石川三四郎などもそうだったと思う。
徳川家康福沢諭吉なども、七転び八起きの人生だったと思うが、彼らの場合は、キリスト教とはまた別に、その信念や信仰のよりどころがあったのだと思う。


たぶん、人間には二種類の人がいて、苦難や挫折にあった時に、再び気を取り直してまた立ち上がっていける人と、そこで折れたり自暴自棄になってしまう人といるのだと思う。
リンカーンやダグラスらのように、通常だったら後者になりそうな苦難を抱えながらも、あえて前者の道を辿ることができた人々が歴史上にはしばしばいる。
その根底には、たしかにこの箴言が述べるように、何らかの確固とした信念や信仰があったからと言えるのかもしれない。


私自身を振り返れば、すぐにへこたれて、打ち砕かれて、挫折していじける気持ちになることがたびたびあった。
今もまた若干そんな気持ちになることがあるが、七度倒れても再び立ち上がる生き方をしたいと、この箴言を読んでいると思うし、そういう勇気や元気が湧いてくる言葉だと思う。
また、この箴言の言葉の生き方を身を以て示した歴史上の人々を思うと、さらに勇気や元気が湧いてくる気がする。


たぶん、世の中の人々は知らなくても、自分が精一杯真っ直ぐに生きていれば、神か如来か、あるいは天というか、そういったものはきちんと見ていてくれるという視点があると、全くそれがない人よりは、ずっと強い気持ちで生きていけるのかもしれない。
この世を強く逞しく生きるには、実はこの世だけのものではない、別の視点や支えがあってこそ、この世もまた強く逞しく生きることができるのだと思う。

自分の道を侮らない生き方

箴言の中に、気になる箇所があった。


Whoever keeps commandments keeps their life,
but whoever shows contempt for their ways will die.
(Proverbs 19.16)


戒めを守る人は魂を守る。自分の道を侮る者は死ぬ。
箴言 第十九章 第十六節)


私が気になったのは、「自分の道を侮る者は死ぬ」という表現である。


一般的なキリスト教一神教のイメージだと、神の道や神の教えを侮る者は死ぬとか災いが下るということは山のように言われていそうな気がする。
実際、旧約聖書の中の十二預言書はそういった言葉のオンパレードな気がする。


しかし、ここで言われるのは、神の道ではなく、「自分の道」である。
それを侮る者は死に至るというのである。


英訳を参照してみると、このNIVの訳だけでなく、ジェームズ欽定訳でも、やっぱりその人自身の道ということになっている。
なので、ヘブライ語原文はちょっと私にはわからないけれど、やはりこれはその人生を生きるその人自身が自分の道を侮る場合ということを指している言葉なのだろう。


「自分の道を侮る」ということはどういうことだろうか。


たぶん、二つの意味があるのではないかと思う。


一つは、自分の人生なんてどうせ大したものじゃない、という自己卑下である。
自分の人生など大した意味はない。
自分の人生など大して良いこともない。
つまらない人生だ。
そんな気持ちを持っていたら、これが「自分の道を侮る」こと、自分の人生を侮るということではないかと思う。


二つ目は、それほど細心の注意を払ったり、誠実さを尽して生きなくても、人生は別にどうってことない、という風に考えることも、「自分の道を侮る」ことではないかと思う。
人生適当に生きて、無責任に生きても、あるいは日々のさまざまなことに手抜きをして生きても、べつに大したことにはならないだろう。
そう思って生きる、手抜きの生き方も、「自分の道を侮る」ことではないかと思う。



一つ目の方については、実は自分の存在は稀有なものであり、大きな願いがかけられていると気付くことが大切なのだと思う。
キリスト教の観点で言えば、おそらく一人一人に本当は神の愛がそそがれているということになるのだろう。


仏教でも似たようなことを言う場合があって、浄土真宗などでは一人一人にみ仏の願いがかけられているということを言う。
また、人が一人生まれるためには、何世代かちょっとさかのぼるだけでいかに大勢の先祖がいなければ成りたたなかったか、また生れてからもどれだけのいのちを食べ物としていただいてきたか、ということもよく言われる。


よく言われるが、悲しいかな、人はすぐにそのことを忘れてしまうのだと思う。
しかし、自分には何か大きな願いがかけられている、あるいは親や先祖や、この世に生れてからお世話になった人々の願いや支えが自分の身に加わっていると思うと、やはり自分の道を侮り自己卑下をすることは間違いなのだと思う。


一方、二つ目の、手抜きの生き方は、人生というのは常に自分の選択であり、その選択に自分が責任を持つということを忘れているところに問題があるのだと思う。
これは自己卑下の反対の、おごりにつながるのかもしれない。


一つ目と同様、もし自分の大きな願いがかけられ、始終大きな真心で育てられてきたと思えば、手抜きをして怠って生きるのは、なんとも恥ずかしい気持ちになる。


また、さまざまな誘惑や岐路にさらされているこの世を生きるにあたって、警戒心や細心の注意や気づきを忘れて、ぼーっと生きて、流されて誤った方向にいってしまうならば、せっかくの人生を大変無駄にしてしまうことだろう。


自分の道を侮ることの対照として、この箴言では、「戒めを守る」ことが挙げられている。
これは、要するに、道徳をきちんと守るということであり、人生の一つ一つの出来事において、道徳や知恵に基づいて選択するということだろう。


自分の道を侮らず、自分の道を尊び、自ら判断し選択して責任を持って生きていくこと。
その生き方を、昔の人は独立自尊やセルフメイドマンという言葉で呼んだ。


この独立自尊やセルフメイドマンの生き方は、別におごりや無宗教とは関係ないのだと思う。
むしろ、リンカーンのように確固たる宗教的信念のある人ほど、自分の道を侮らない、この生き方になったのだと思う。


もちろん、人間の身というのは愚かな限りあるものだから、自分としてはこの選択が良いと思っても間違っていたということもあるかもしれない。
また、戒めや道徳を守ろうと思いながらも、守ることができず、末徹らないのが、普通の人間にはどうしてもあることだと思う。


しかし、そうであればこそ、自分の道を侮らないように心がけていき、そのつど再び自らを戒めていくことが大切なのだと、この一節をじっと見ていると思わされる。


自分の道を侮らない生き方。
これは考えれば考えるほど、深い言葉であると思う。

人生の道のりを計る

箴言を読んでて、考えさせられる表現があった。


Lest thou shouldest ponder the path of life, her ways are moveable, that thou canst not know them.
(Proverbs 5.6 King James Version)


She gives no thought to the way of life;
her paths wander aimlessly, but she does not know it.
(Proverbs 5.6 NIV)


人生の道のりを計ろうともせず
自分の道から外れても、知ることもない。
箴言 第五章 第六節)



この箇所は、同章の三節に言われる「よその女」の誘惑を受けた場合について述べられている。


NIVとジェームズ欽定訳では若干解釈が違うようで、ジェームズ欽定訳の方が日本語訳に近いようである。
私も、ここはたぶん、主語は「よその女」ではなくて、その「よその女」の誘惑を受けた人が主語だと受けとめた方が良いのではないかと思う。


「よその女」が何を指すのか、文字通り読めば人妻や遊女などかもしれないが、象徴的に解釈すれば、誘惑や欲望一般なのかもしれない。


あるいは、箴言第五章の「よその女」は、欲望と怒りと無知を象徴的に現していると見ていいかもしれない。


そして、そのようなものの言いなりになってしまった人は、人生の道のりを計ろうともせず、自分の道から外れても知ることがない、と言われている。


私がここで気になったのは、「人生の道のりを計る」という表現である。


「人生の道のりを計る」とはどういう意味だろう。


たぶん、人間の寿命には限りがあり、人生における時間は有限のものである、そのことを念頭に入れることではないかと思う。


人はともすれば、そのことを忘れて、欲や怒りに貴重な時間を惜しげもなく費やしてしまう。
それは、「人生の道のりを計る」ことを忘れて、自分の人生が限りあるものであることを忘れてしまっているからなのだろう。


また、この節で言われる「自分の道から外れる」とはどういうことだろうか。


道徳を踏み外すという意味もあるだろう。
と同時に、道徳一般というだけでなく、自分の本来のありかたやあるべき姿からはずれることや、自分のなすべきことや、もっと言えば人生の軌道のようなものからはずれることも指すのかもしれない。


では、どうすれば、自分の道から外れないようにできるのだろう。
自分の道から外れた時に、気づくことができるのだろう。


それにはやはり、「人生の道のり」を計って、有限な人生であることを自覚し、あまり欲や怒りや誘惑などによって脇道にそれないようにすることが肝要なのかもしれない。


また、日々に箴言やダンマパダなどの古典を読んで、自分の心のありようをチェックすることも大事かもしれない。


人生の道のりを計り、限りのある人生だと考えて生きていくことと、自分の道から外れぬように時折自分をチェックしていくこと。
そのことが、「よその女」に自分の人生を台無しにされないためには、大事なことなのだろう。


自分の人生に応用して考えれば、逆にあんまり焦り過ぎたり、別に道から外れてないのに自分の人生は間違ったのではないかとくよくよ思うのも良くないのかもしれない。
適切に人生の道のりをはかり、焦らずに冷静に限りある人生を大切に生きることと、チェックを入れた上でそれほど軌道をはずれていなければ、これが自分の道なのだと安心立命して生きていくことも大切なのかもしれない。


いつものことながら、箴言は短い語句に、よくここまで深い内容を湛えているものだと感嘆させられる。

映画 「ベン・ハー」

ベン・ハー 特別版(2枚組) [DVD]

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かれこれ二十年ぶりぐらいに見た。

ところどころ覚えていたけれど、ほとんど細部は忘れていたので、あらためてとても面白かった。

今ではとても無理なぐらい、豪華なつくりで、CGがない時代だけに、細部まで手作りの再現セットと膨大なエキストラで映像がつくられているのがすごい。

三時間半ぐらいあるけれど、さすがに全然退屈せずに一気に見た。

昔見た時はよくわからなかったけれど、この作品は、究極的には怒りではなくて許しがテーマだったんだなぁと思った。

エスが直接は顔は映らず、後姿だけでしばしば登場するのだけれど、それだけにかえって印象深い。

ローマ帝国と古代イスエラエルと、あらためて興味深い歴史だなぁと思った。

にしても、この前は南北戦争の歴史の本をせっせと読んでたら「風と共に去りぬ」がテレビであって、最近ひさしぶりに聖書を読んでたら「ベン・ハー」がテレビであるとは。
偶然の一致というか、ラッキーというか。

こういった歴史モノを見ていると、いつの世もどの人の人生も大変で、どうにもならない恩讐を抱えて生きてんだろうなぁと思う。
そして、大抵の場合、どの時代と比べても、今はそれなりに良い面も多い時代なのだろう。
そんでもって、今の時代もなんとかかんとかうまく乗り越えていかんとなぁと思う。