人生の道のりを計る

箴言を読んでて、考えさせられる表現があった。


Lest thou shouldest ponder the path of life, her ways are moveable, that thou canst not know them.
(Proverbs 5.6 King James Version)


She gives no thought to the way of life;
her paths wander aimlessly, but she does not know it.
(Proverbs 5.6 NIV)


人生の道のりを計ろうともせず
自分の道から外れても、知ることもない。
箴言 第五章 第六節)



この箇所は、同章の三節に言われる「よその女」の誘惑を受けた場合について述べられている。


NIVとジェームズ欽定訳では若干解釈が違うようで、ジェームズ欽定訳の方が日本語訳に近いようである。
私も、ここはたぶん、主語は「よその女」ではなくて、その「よその女」の誘惑を受けた人が主語だと受けとめた方が良いのではないかと思う。


「よその女」が何を指すのか、文字通り読めば人妻や遊女などかもしれないが、象徴的に解釈すれば、誘惑や欲望一般なのかもしれない。


あるいは、箴言第五章の「よその女」は、欲望と怒りと無知を象徴的に現していると見ていいかもしれない。


そして、そのようなものの言いなりになってしまった人は、人生の道のりを計ろうともせず、自分の道から外れても知ることがない、と言われている。


私がここで気になったのは、「人生の道のりを計る」という表現である。


「人生の道のりを計る」とはどういう意味だろう。


たぶん、人間の寿命には限りがあり、人生における時間は有限のものである、そのことを念頭に入れることではないかと思う。


人はともすれば、そのことを忘れて、欲や怒りに貴重な時間を惜しげもなく費やしてしまう。
それは、「人生の道のりを計る」ことを忘れて、自分の人生が限りあるものであることを忘れてしまっているからなのだろう。


また、この節で言われる「自分の道から外れる」とはどういうことだろうか。


道徳を踏み外すという意味もあるだろう。
と同時に、道徳一般というだけでなく、自分の本来のありかたやあるべき姿からはずれることや、自分のなすべきことや、もっと言えば人生の軌道のようなものからはずれることも指すのかもしれない。


では、どうすれば、自分の道から外れないようにできるのだろう。
自分の道から外れた時に、気づくことができるのだろう。


それにはやはり、「人生の道のり」を計って、有限な人生であることを自覚し、あまり欲や怒りや誘惑などによって脇道にそれないようにすることが肝要なのかもしれない。


また、日々に箴言やダンマパダなどの古典を読んで、自分の心のありようをチェックすることも大事かもしれない。


人生の道のりを計り、限りのある人生だと考えて生きていくことと、自分の道から外れぬように時折自分をチェックしていくこと。
そのことが、「よその女」に自分の人生を台無しにされないためには、大事なことなのだろう。


自分の人生に応用して考えれば、逆にあんまり焦り過ぎたり、別に道から外れてないのに自分の人生は間違ったのではないかとくよくよ思うのも良くないのかもしれない。
適切に人生の道のりをはかり、焦らずに冷静に限りある人生を大切に生きることと、チェックを入れた上でそれほど軌道をはずれていなければ、これが自分の道なのだと安心立命して生きていくことも大切なのかもしれない。


いつものことながら、箴言は短い語句に、よくここまで深い内容を湛えているものだと感嘆させられる。