慈悲は自分自身を益す

箴言を読んでたら、慈悲の心が本人にとっても何よりも良いということが書いてある箇所があった。


The merciful man doeth good to his own soul:
but he that is cruel troubleth his own flesh.
(Proverbs 11.17 King James Version)


Those who are kind benefit themselves,
but the cruel bring ruin on themselves.
(Proverbs 11.17 NIV)


慈しみ深い人は自分の魂を益し
残酷な者は自分の身に煩いを得る。
箴言 第十一章 第十七節)


通常、私は英訳はNIVを読んでるのだけれど、ここはジェームズ欽定訳の方が日本語訳にも近くて味わい深い気がする。
つまり、慈悲は自分自身にとって何よりも良いものをもたらすということだろう。


この箇所は、全くダンマパダなどの仏教の古典が教えていることと同じで、完全に一致すると思う。


仏教の場合、慈悲は何よりも本人の心身にとって薬となり、元気づけるものだと説く。
なぜならば、速行心(心の流れ)に善心所(善い心の要素)がその瞬間に生じ、そのことは心や身体の栄養になり、人生に良い報いもカルマの結果として生じると考えるからである。


アビダンマッタサンガハなどに精緻に速行心や善心所や業のことは説かれるが、ダンマパダなどにも繰り返しわかりやすい形で説かれる。


聖書には、あんまり仏教のような形で心の法則や業の法則が説かれることはないようだが、結果としては全く同じことがここで言われており、経験的に古代イスラエル古代エジプトの賢者はそのことがわかっていたということなのだろう。


一方、残酷な人や冷淡な人というのは、結果として、自分自身の心や身体にあんまり慈悲による良い結果を受けることができないのかもしれない。


昨今、健康ブームで、長寿を目指してさまざまな健康法やサプリメントがしょっちゅう番組やCMで流れているけれど、それはそれで良いとして、慈悲の心を育てることが、一番自分の心身の健康に良いということも、もう少し現代社会で心がけられても良いことなのかもしれない。


あと、聖書だと、このような仏教と同一の智慧に結果としては至っているものの、ではどうやって慈悲の心を育てるかは、あんまり書かれていないようではある。


もちろん、心がけて実際にそのように生きていれば慈悲の心は育つだろうし、福音書のいくつかの語句をしっかりと読みこんで繰り返し思えば、いたずらに仏教の経典を漢文で意味も解らず棒読みするよりはるかに慈悲の心が育ちそうな気はする。


とはいえ、おそらく、仏教に伝わる慈悲の瞑想は、キリスト教などの他の宗教にも大いに役立つものになると思う。


慈悲の瞑想こそが自分自身を最も益すること。
そのことをあらためて深く思わせる、箴言の中の一節だった。

絵本 「青いナムジル」

青いナムジル

青いナムジル


馬頭琴がどうしてできたか。
モンゴルに伝わる物語。
いわば、もうひとつの「スーホの白い馬」。

スーホの白い馬」も名作だけれど、こちらはかなりストーリーが異なっていて、もっと壮大な物語。

絵もとても美しくて、本当にすばらしい絵本だった。

これは名作。
多くの人にオススメしたい。

心に納めるということ

箴言の中に、こんな一節があって、考えさせられた。


Do not let them out of your sight,
keep them within your heart;
(Proverbs 4.21)


見失うことなく、心に納めて守れ。
箴言 第四章 第二十一節)


これは、前の文章を受けていて、父の諭し、あるいはソロモンが語る知恵について、見失うことなくしっかり心に入れて守りなさい、という意味の文章である。
そうすれば、その知恵が命となり、健康となると次の節では説かれている。


シンプルな言葉のようで、深く考えさせられる。


読んだり聞いたりしたことを、見失わないこと。
そして、心にしっかり入れて保つこと。


これは実は、結構難しいと思う。


現代のように次々と情報が発信され、流行は移り変わり、早く早くとせかされる時代においては、ともすれば大切なことすら簡単に忘れ去られていく。


本も多読すればするほど、かつて読んだ本のことはともすれば忘れてしまう。


その時は感動しても、ざっとおおまかなことと、その時感動したことだけを覚えているだけで、また次の別のものに飛び移っていってしまう。


それはそれで、必要な場合もあるかもしれないし、必ずしも悪いことだけではないかもしれない。


しかし、何かの知識が知恵に変わるということ、本当に知識が血肉化され、発酵するということのためには、見失わず、しっかり心に納めること、つまり忘れずに繰り返し読み直し、見つめ直し、考えるということが必要なのだと思う。


たとえば、自分のことで言えば、私はかれこれ二十年ぐらい前には一度箴言を読んでいた。
しかし、さっぱり忘れ果てて、わかったような気になっていた。
これほど宝の山のようなすごい本だとは、つい最近まで気付かず、本棚に置きっぱなしだった。
つまり、私においては、せっかく一度か二度は読んでも、箴言は見失われ、心の中に納められていない知識だったのだと思う。


箴言に限らず、何かの歴史や言葉や知識も、見失わずに心に納めてこそ、本当に生きた知識となり知恵となるのだと思う。


見失わないためには、繰り返し注意を向けていくこと。
心に納めるためには、しっかりと思うことが大事なのだろう。


「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」
(マルコによる福音書 第八章第十八節)


ということほど、人間として恥じるべきことはないのかもしれない。
そして、情けないことに、人間とはすぐにこうなってしまう生きものなのだろう。


法然上人もよく似たことを言っていて、長時修と無間修ということを説いている。
どういうことかというと、長い間、間断なく、仏の恩を思い念仏を修める、ということである。
これは言いかえれば、見失うことなく、心に納めて守る、ということだと思う。


長時修・無間修。
見失うことなく、心に納めて守ること。
自分の大切なことに関しては、常にこのことを心がけたいとあらためて考えさせられる一節だった。