梯実円 「教行信証の宗教構造」 読書メモ

梯実円 『教行信証の宗教構造』(法蔵館

生死一如、自他一如、怨親平等
それが実相であり、如来や浄土の領域であること。

しかし、凡夫である普通の人間は、自分を中心とした妄念の虚構の中で生きていながら、そのことに気づかず、実相・如来の領域については全く思いもよらない。

その凡夫の私が、如来のはかりしれない働きかけとおはからいのおかげで、念仏申す身に育てられ、本願をそのまま聴く信心をめぐまれるということの不思議。

親鸞聖人の説き明かした、はかりしれない深さと明るさとよろこびに満ちた風光。


メモ

p.143〜144

煩悩具足の凡夫とは、知らず知らずのうちに自分の都合を中心にして、是非・善悪の価値体系をつくりあげていくものである。自分に都合のいい、役に立つものだけを是として愛し、自分に都合の悪いものを非として憎み、敵と味方をつくり、われも人もともに深い傷を心にきざみこみながら生涯を送っている。誰しもみな、一生懸命生きていながら、ふりかえってみると、むなしい後悔と怨念だけが残るような人生であるとすれば「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと」としかいいようがないであろう。

こうした自己中心的な想念によってえがき出した虚構の世界を虚構と知らせ、私の妄念煩悩の彼方に、きらめくような真実の「いのち」の領域のあることをよびさますものが、本願の声としての南無阿弥陀仏であった。念仏は愛憎の悩みを転じて仏徳を味わう縁とし、そらごと、たわごとの人生を、仏法の真実を確認していく道場といただくような心を私のうえに開いていく。そのことを「ただ念仏のみぞまことにておはします」といわれたのである。念仏は、うその人生をほんものに変えていくものであった。


p.206

三世を超えた如来の智願が招喚の勅命(南無阿弥陀仏)となって一人一人の上に印現しているのが信心である。信心はそのまま勅命であるというような信の一念は、時を超えた永遠が、時と接して時の意味を転換するような内実を持っていた。

このような信の一念において、私の時間の意味、すなわち私の人生の意味と方向が転換する。それは煩悩にまみれた、しかも悔いに満ちた過去の中にも、大悲をこめて私を念じたまうた久遠の願心を感じ、そこに遠く宿縁を慶ぶという想いが開けてくる。また次第に迫ってくる死の影におびえ、人生の破滅という暗く閉じられた未来への想いを転じて、臨終を往生の縁と聞き開くことによって永遠の「いのち」を感じ、涅槃の浄土を期するという「ひかり」の地平が開けてくるのである。こうして信の一念という「いま」は、新たな過去と将来を開いていくような「現在」であるといえよう。本願を信ずるただ今の一念は、こうして如来、浄土を中心とした新しい意味を持った人生を開いていくのである。それを親鸞聖人は現生正定聚という言葉で表されたのであった。

p.229

こうして親鸞聖人にとって信心とは、如来智慧が本願の言葉となって私にとどき、私をよびさまし、涅槃の領域に向かって導いていくことを意味していたというべきであろう。


p.247

親鸞聖人はこのような天親菩薩・曇鸞大師の真実功徳釈を承けて、「真実は如来なり」といわれたのであるが、そこから三つの事柄が明らかになる。第一は、真実は一面では如来・浄土として現われるが、一面では大悲本願の救いという形で万人の前に顕現してくるということである。そして救済の確かさを人々に信知させ、必ず救われるという疑いなき信心となって私どものうえに実現してくるということである。親鸞聖人が信心の徳を讃嘆して、「たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず」といい、信心とは如来の真実が私の上に顕現している姿であるから至心といい、真実信心といわれると釈顕された所以である。
第二には、法蔵菩薩の修行のありさまは、私どもに何が真実であり、何が虚偽であるかという、真実と不真実の判別の基準を示しているということである。自己中心的な想念に閉ざされている私どもは、是非、善悪の基準を自己におき、自是他非というゆがめられた価値感覚をもってすべてを計っていきがちである。こうした自己中心の想念を破って、万人が本来そうあらねばならない真如にかなった真実の生き方を聞くことによって、自分の生きざまの虚偽を思い知らされていく。いわゆる機の深信が呼び覚まされるのである。
こうして第三には、如来の真実を基準にした、正しい意味の是非・善悪の価値観が育てられていく。そして正しい生き方とは何であるかという道理の感覚が次第に育てられ、わが身の愚かさをつねに顧みつつ、み教えに導かれて生きようとするようになる。『蓮如上人御一代聞書』に「わが心にまかせずして心を責めよ」といわれるような生き方がが恵まれてくるのである。「責める」というのは、行いの過失や罪をとがめることであるが、ここでは、自分の犯した罪を恥じ、つつしむことを意味していた。私どもは、ともすれば人には厳しく、自分には寛容になりやすいものである。そしていろいろと言い訳をして、自分の罪を自分で許してしまいがちである。そうした自分勝手な考えた方や行動を厳しくたしなめ、私どもを悪から守ってくれるのが仏法の真実なのである。
如来の真実を仰ぐものには、自身の醜い行いを自己弁護したり、目を背けたりしないで、まっすぐに見つめて慚愧し、力のかぎり身をつつしみ、「和顔愛語」とか、「少欲知足」といわれた経説を、及ばずながらも実践していこうとするような行為の基準と方向性が明らかになる。それをたしなみというのである。そこにはいい意味での「いのち」の緊張感も生まれ、生きがいのある日々を送るようになる。それが如来のご照覧のもとに営まれていく人生というものである。

p.328

『観経』真身観には「仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂す」と説かれている。仏心とは、智慧と慈悲であるのに、あえて仏心とは大慈悲であるといわれているところに、阿弥陀仏とは、衆生の苦悩を共感し、救済しようとする大悲の願心を本体としている如来であることを顕していた。それゆえ善導大師は、仏道を学ぶということは「仏の大悲心を学ぶ」ことであるといわれたのであった。大悲心を学ぶということは、何よりも人の痛みのわかる人間になろうと努めることであろう。如来の大悲、すなわち痛みの共感ということをすべての価値の根源とし、それを思想と行動の原点にしていくものを菩薩と呼ぶのである。それを善導大師は「玄義分」に「われらことごとく三乗等の賢聖の、仏の大悲心を学して、長時に退することなきものに帰命したてまつる」といわれたのであった。
しかし、私どもの現実は、他の人と本当に痛みを共有しきることもできず、人の痛みを癒していくこともできないという、自他を隔てる厚い壁に遮られている。そしてまた、どんなにいとおしく思い、たとえわが身に代えてでも幸せになってほしい人がいたとしても、指一本の支えもしてやれないこともある。人生には、腸の断ち切られるような思いを懐きながらも断念しなければならないことがあるのである。人間の愛の手の及ばぬことがあるのだ。その人間の愛の悲しい断念を包み、支えたまうものは阿弥陀仏大慈大悲の本願だけである。人間の手のとどかぬところにまで、如来の大悲の手は確実にさしのべられているのだと聞くとき、自分の力なさを悲しみながらも、希望と光がさしこんでくる。その心を親鸞聖人は、
小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ
如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき
 と讃詠されたのであった。
 聖人がこの和讃をよまれたのは八十五、六歳のころであったと推定される。その前年、八十四歳のときには、断腸の想いをもってわが子善鸞を義絶し、父子の縁を切らねばならなかった悲しい事件があった。わが子一人を救い切れない自分の無力さが、どんなにつらかったことか。「義絶状」のなかに「かなしきことなり」と記された一語には万感がこもっていた。この事件の渦中にあって聖人は、我が力で人を救おうと願う人間の慈悲の空しさ、悲しさをひとしお深く感じられたのであろう。小慈小悲さえも行じえない愚かな身で、人を済度することができるなどと考えることは不遜な思い上がりである。力無き私ども一切の苦悩の衆生を救うて仏陀にならしめようと誓願された大悲の本願に身をゆだねて念仏を申すところにのみ、人間の愛の限界を超えて、自他ともに大悲に包まれて愛憎・生死の苦海を渡る大道が開かれていくのである。
 「大悲を行ずる」ということが、自他を分けへだてする「私」という小さな殻を破って、万人と一如に感応しあい、自在に人びとを利益することであるとすれば、それはただ、如来にのみ可能なわざである。しかし凡夫であっても、万人を平等に救うと仰せられる阿弥陀如来の大悲招喚に応答して、大悲の本願に身をゆだね、その広大なはたらきに参加することは許されている。いいかえれば、如来の大悲に呼び覚まされて、苦しみ悩む人々と連帯しつつ、自他ともに大悲に包まれていることとを讃仰するような身にならしめられることを「常に大悲を行ずる益」といわれたのである。


p.391

念仏しつつ浄土を目指す私の往相としての人生は、阿弥陀仏に護られ、無数の還相の菩薩に支えられていたのであった。

(抜粋は以上)


(至心についての解説のところで、法蔵菩薩の修行の箇所を、行為の基準と方向性だとはっきり示し、いのちの緊張感を与えるものと指摘していることは眼からウロコだった。)

「はじめに本願力あり」ということや、
凡夫の菩提心とは、如来の大菩提心に包まれていることを信知して慶ぶこと、という指摘も、本当に味わい深いものだった。

十力 メモ

十力 (観経等) メモ



1.処非処智力(しょひしょちりき)。道理・非理を知る力。
2.業異熟智力(ごういじゅくちりき)。業とその果報との因果関係を知る力。
3.静慮解脱等持等至智力(じょうりょげだつとうじとうしちりき)。禅定や三昧を知る力。
4.根上下智力(こんじょうげちりき)。衆生(しゅじょう)の能力や性質の優劣を知る力。
5.種種勝解智力(しゅじゅしょうげちりき)。衆生の意欲や望みをあきらかに知る力。
6.種種界智力(しゅじゅかいちりき)。衆生の本性を知る力。
7.遍趣行智力(へんしゅぎょうちりき)。衆生の人(にん)・天(でん)等の諸世界に趣く行(ぎょう)の因果を知る力。
8.宿住随念智力(しゅくじゅうずいねんちりき)。自他の過去世のことを思い起す力。
9.死生智力(ししょうちりき)。衆生の未来の生死・善悪の世界を知る力。
10.漏尽智力(ろじんちりき)。煩悩(ぼんのう)を滅した涅槃(ねはん)の境地と、それに到達するための手段を知る力。

シェイクスピア 「波が砂浜に打ち寄せるように」

「波が砂浜に打ち寄せるように」
 (シェイクスピア

波が砂浜に打ち寄せるように、
私たちの時間も終わりに向かって急いでいく。

おのおのの瞬間がその前の瞬間と場所を変え、
すべて前へと次々に争っていく。

人は誕生し、いったん光の中へと入ると、
成長へと這い出していき、その成長や栄えを授けたはずの時間が、
ゆがんだ日食となって彼の栄えに対して戦い、
彼に与えたものを打ち破る。
歳月は、若さに与えられていた華やかな美しさを槍で刺し貫き、
美しい顔(かんばせ)に皺の線を刻み込んでいく。
自然の恵みが生んだ稀有なるものを食いつくす。
何ものも歳月の鎌から刈り取られることを免れることはできない。

けれども、ずっと未来にも、歳月の冷酷な手に関係なく、
あなたの美しさ、真の価値を讃えた、この私の詩のことばは、
ずっとのこっていくだろう。


"Like as the waves make towards the pebbled shore"
by Shakespeare

Like as the waves make towards the pebbled shore,
So do our minutes hasten to their end;
Each changing place with that which goes before,
In sequent toil all forwards do contend.
Nativity, once in the main of light,
Crawls to maturity, wherewith being crown'd,
Crooked elipses 'gainst his glory fight,
And Time that gave doth now his gift confound.
Time doth transfix the flourish set on youth
And delves the parallels in beauty's brow,
Feeds on the rarities of nature's truth,
And nothing stands but for his scythe to mow:
And yet to times in hope my verse shall stand,
Praising thy worth, despite his cruel hand.

キャンピオン 「真っ直ぐに生きる人とは」


キャンピオン 「真っ直ぐに生きる人とは」


真っ直ぐに生きる人とは、

あらゆる曲がった行いやむなしい想いから免れた、
やましいところの微塵もない心の持ち主のこと。

そういう人は、
害意なく喜びにあふれた静かな日々を送り、
将来への望みに惑わされることも、過去への後悔に苛まれることもない。

そういう人は、
己が身を守るために城も鎧も必要としない、
天からの雷撃から逃れるための隠れ家も必要としない。

そんな人のみ、
恐れなきまなこをもって、
奈落の底の恐怖も、
天上の脅威も見つめることができる。

そういう人は、
運やツキがもたらすものへのあらゆる心配を一笑に付し、
「天」を己の指南書とし、
天の理にかなった事柄を己の智慧の源泉とし、

良き想念をのみ己が友とし、
良く過ごされた歳月を己の富と心得、

この地上の人生、娑婆のいのちを、
静かな遍路の道のり、
そしてしらふで過すべき仮の宿と心得る。

そういう人こそ、真っ直ぐに生きる人というものだ。




"The Man of Life Upright"

by Thomas Campion


The man of life upright,
Whose guiltless heart is free
From all dishonest deeds
And thought of vanity,


The man whose silent days
In harmless joys are spent
Whom hopes cannot delude
Nor sorrows discontent,

That man needs neither towers
Nor armour for defence
Nor secret vaults to fly
From thunder's violence.

He only can behold
With unaffrighted eyes
The horrors of the deep
And terrors of the sky.

Thus, scorning all the cares
That fate or fortune brings,
He makes the heaven his book
His wisdom heavenly things,

Good thoughts his only friends,
His wealth a well-spent age,
The earth his sober inn
And quiet pilgrimage.

利井先生 観経講義メモ

(2010年9月27日 利井先生 観経講義メモ)


A、観経について

私たちの人生は、思い通りにならないことがたくさんある。

なぜそうかというと、煩悩中心だから。
私の煩悩を中心として生きようとするから、思い通りにならない。

そのうえ、各自の煩悩は、各自それぞれ異なる中身や形であり、食い違い、ぶつかり、反目する。

極楽とは、お浄土とは、煩悩を中心としない世界のことである。

観無量寿経では、観仏が説かれる。

観無量寿経には、仏様から見える世界が描かれている。
私の都合ではなくて、煩悩のない眼で見るから、大地の本当の尊さがわかり、大地が黄金や瑠璃地に見える。

観無量寿経における観仏とは、仏様と同じ感性を持ち、仏様と同じものの見方をするということである。

しかし、それは不可能である。

観無量寿経の観仏は最高の教えではあるが、煩悩具足の凡夫にはできないことである。

これを古人は、

「権法をもって実機をたたき出す」

と述べた。
観無量寿経という仮(権)の教えをもって、自分の本当の姿を自覚させる、ということである。
観仏は無理で、御念仏しかないということを自覚させるのが、観無量寿経の本当の教えということである。

しかし、それでは、観無量寿経の内容や観仏は、捨てものかというと、そうではない。

観仏は往生行としては不可能だけれど、仮の教えだけれど、浄土・弥陀の徳が讃嘆されているものとしては、真実である。
讃嘆は真実。

ゆえに、真身観や観音観など、しっかりいただき、味わうことは、弥陀の御徳を味わうことである。


B、浄土真宗における「救い」、特に現生の救いについて

浄土真宗における「救い」、浄土真宗のお救い(御利益)には、二つある。

一つは、当来の救い。
もう一つは、現生の救い。

浄土真宗における当来の救いとは、御信心いただいた念仏者は、命終わったのちには、浄土に往生して仏となるということ。
これは、本当はありうべからざる、すごいことである。
しかし、煩悩具足の凡夫にはなかなかあまり喜べない。
歎異抄唯円も、喜びが淡くしか起こらないけれどこれでいいんだろうかと言っていることで、なかなかはっきりとはよくわからないことである。

一方、現生の救いとは、正定聚になること。
正定聚とは、正しく成仏が定まったともがら、
つまり、命終わったのちには、浄土に往生して仏となるべき身に今定まること。

正定聚=安心。
心が定まる、よりどころがしっかり決まる。

しかし、当来の救いがよくわからないならば、正定聚もよくわからないことかというと、そうではない。

正定聚とは、要するに、私の価値観が変わること。
新しい価値観に転換すること。

今まで煩悩を中心とし、自分を中心に考えていて、それが当然と思っていたのが、仏が真実であり、仏が中心であるという風に価値観が転換すること。
仏という価値観を得て、是非の基準が定まること。

現生正定聚は具体的な確固としたもの。

価値観が変わる。
私中心が正しいと思っていたのが、誤りだったと気付く。
正しさは仏の側にある。
仏=正=真実。

我が中心だったのが、弥陀の真実に出遇って、ひっくり返る。

ここが大事な救い。
新しい価値観を得ることこそが、現生の救い。
本当に正しいものとは何か、知ること。

このことは、生き方に大きな影響、変化がある。

具体的な現生の救いの内容について、現生十種の益として親鸞聖人は教行信証に明らかに書いている。

1、 冥衆護持

見えない存在が守ってくれている、という意味。

たとえば、法事も、私がした、私がやった、と思ったらいけない。
そうではなく、先に亡くなった家族やご先祖様のおかげで、その方たちが中心となって働きかけて、今私も法事をつとめさせてもらい、仏様の話を聞かせていただいている。
働きを受けている。
そのおかげで、今御念仏申している。
そうでなくて、自分がしたと思っていたら、都合が悪くなったりめんどくさくなったらやめる。
目に見えない、先だった家族やご先祖様が守ってくださって働きかけているからこそ、煩悩中心であった私が、御念仏申す身になり、今仏法を聴く身となったと気付くことが冥衆護持。

2、 至徳具足

煩悩具足の私が、至徳の念仏を称える身になる。
御念仏申すこと。
如来の御徳をいただいて、生きていく。
御念仏申すところに、如来の御徳をいただいていく人生が恵まれる。

3、 転悪成善

悪は消えないが、転じる。
煩悩は消えないが、その煩悩を転じていくことができる人生。

煩悩中心を当然とせず、煩悩に気付いて、慎み、正しい方向に転換していく。
そうした人生が、念仏者には恵まれる。

煩悩中心であった私が、仏の真心を聴き、そうではなかった、仏様が中心であった。
そう聴いて、気付く。
それを何度も繰り返す。
その中で、少しずつ、身につく。
仏の真実に何度も触れることにより、煩悩に敏感になっていく。
敏感な感性に恵まれる。
そこに、慎みと、悪を転じて善に向かっていく人生が恵まれる。

4、 諸仏護念

阿弥陀経の六方段にあるように、東西南北上下の無数の仏様が守ってくださっていること。
六方段は、何度も繰り返し読む。
本当はとても大切な、すごいことなのに、なかなか我々はそうは思えない。
仏のことは仏に聴く。
六方の無数の仏が御念仏を勧めてくださり、御念仏を私が申すように働きかけ、守ってくださっている。
そのことを何度も聴き、気付くところに、驚きと安心が恵まれる。

5、 諸仏称賛。

仏中心の生き方に、よく気付いたと、諸仏が誉めてくれる。
御念仏申す人には、自分中心ではない仏をよりどころとする人生が恵まれるが、これは本当に稀有な、珍しいこと。
そのことを、諸仏がとても喜び、誉めてくださる。

6、 心光常護

仏様が今、私を守り、見守ってくださっている。

何か本当につらいことがあったり病気の時は、心配してくれる人には心配するなと言いながら、もうすっかりいいねと言ってくる人には、もうちょっと心配してくれと思ったりする。

結局、私の苦悩を本当にわかってくれる人はいない、という孤独や寂しさを感じる時がある。

その孤独や寂しさがあまりつのると、秋葉原の事件のように、あるいは自殺のように、人を傷つけたり、自分を傷つけてしまう。

しかし、阿弥陀如来は、この私のことを本当に知っていてくださる、わかっていてくださる。
私自身が気づいていない、私の煩悩や苦しみまで見通してくださっている。
そして、私の苦しみを共に苦しんでくださっている。

そのような如来の御心に包まれ、守られていることに気付いた時に、人は本当に立ち上がっていけるし、立ち直っていける。


7、 心多歓喜

喜びが多く恵まれる。

煩悩が満たされることを喜ぶのではない。
そういう喜びが増えるわけではない。

そうではなくて、何気ないことの中に、生かされている不思議や喜びを感じることができる。
そういう豊かな感性が、念仏申し仏様の話を聞く人生には開かれて育てられていく。

8、 知恩報徳

仏の恩を知って、徳に報いる。
つまりは、御念仏申すことが御恩報謝、知恩報徳。

ただし、御念仏を申すことが恩返しということではない。

親が一番喜ぶことは、親が心から言うことを素直に聞くこと。

私が御念仏申すことが恩返しなのではなく、仏・親様が念仏申せということを素直に聴き受けて念仏申すことが恩に報いることになっている。

9、 常行大悲

常に仏の大悲を行ず。
つまり、御念仏申すこと。

そこに、弥陀に常に見守られているという生き方が開かれていく。
仏の大悲の念仏を行ず。
そこに、仏の大悲の御心に見守られ、仏の大悲の御心を己の心として生きていく人生が恵まれていく。

10、正定聚。

上記の九つや、その他無量の徳をすべて含んだ徳が、正定聚、つまり御信心いただき御念仏申す人に現生に恵まれる救い・利益である。

(以上)

フライシュレン 「心に太陽を持て」


「心に太陽を持て」(フライシュレン、山本有三訳)


心に太陽を持て。
あらしが ふこうと、
ふぶきが こようと、
天には黒くも、
地には争いが絶えなかろうと、
いつも、心に太陽を持て。


くちびるに歌を持て、
軽く、ほがらかに。
自分のつとめ、
自分のくらしに、
よしや苦労が絶えなかろうと、
いつも、くちびるに歌を持て。


苦しんでいる人、
なやんでいる人には、
こう、はげましてやろう。
「勇気を失うな。
くちびるに歌を持て。
心に太陽を持て。

「人生の六つのキーワード」 サキョン・ミパム・リンポチェ

「人生の六つのキワード」 サキョン・ミパム・リンポチェ"Ruling your world"より

1、人間の身に生まれたことの貴重さ "precious human birth"
2、無常  "impermanence"
3、死 "death"
4、業  "karma"
5、輪廻 "samsara"
6、目覚め・気づき  "awakend heart or mind"


メモ

(この広大な宇宙の中、たまたまこの地球の、そして無数の生命がある中で、この人間の身を受けるのは、非常に稀なこと。

無常を受け入れれば、いろんな摩擦や葛藤が少なくなり、より目覚めて、柔軟に生きていける。

死を思えばこそ、人生を無駄にせず、時間の限界を悟り、有意義に集中して生きていける。

業、つまり原因と結果の法則を理解してこそ、人は正しく努力できるし、幸福に本当になることもできる。

輪廻、つまり結局のところ、苦しみしかないと気付けば、感覚的な喜びや欲望にだけに駆られる人生から脱却して、目覚めの方向に進むことができる。

そうして、呼吸の瞑想や慈悲の瞑想に励むところに、目覚めや気づきがある。)

栄西のことば

「大いなるかな心や、天の高きは極むべからず。しかるに心は天の上に出づ。地の厚きは測るべからず。しかるに心は地の下に出づ。日月の光は踰(こ)ゆべからず。しかるに心は日月光明の表に出づ。」

”How magnificent the human Mind is!
It is higher than the infinite height of the heaven,
deeper than the immeasurable depth of the ground,
more luminous than the brightest light of the sun and moon.”

デ長老のアドヴァイス メモ

デ長老のアドヴァイス メモ

一、きちんと選択すること

目標をたてること。
目標とは、最後が見えることで、単なる地図。

行く道を、分割する。
いっぺんに全体を考えるのではなく、その計画を分割して、分割した計画の中で働いていく。



二、仕事を完成させること

1、心の力 2、体の力、3、時間、4、皆の協力

の四つのリソースを、そのできごとについて書いてみる

入れた力 → 結果になる力

頭を使う → 疲れる → 分割した計画にある点で、ある部分で成功していたら、自分にプレゼントを与える。

楽しい計画を
見方を変える。見方が変わる

一週間ごとのことをやっていく。
心をタフにする


強い希望を持つこと

この問題から早く離れるためには、とりかかったこの論文を早く完成させると考える

心の力、時間、体力から、どれくらいで完成するか、できないならば、能力の問題か、時間の問題か、考える。

努力する中で先が見えてくる。
努力を続けることが大事。

関係者に、自分の努力を知ってもらうことが大事。

目標と関係のある、時間、心の力、の使い方の工夫。

トルストイ『人生論』 メモ

トルストイ『人生論』メモ

「目に見える生活は生命の無限の運動の一部分にすぎない。」

人は死んで無になるのではなく、精神の形の思い出として、ずっと働き続けていく。

「人は死んだ、が外界に対するその関係は生前どおりどころか数十倍もより強く人々に対して働きかけつづけているのだ。そしてこの働きは理性と愛情の度合いに応じて、まるで生きもののように大きく成長し、決してやむことも跡切れることもない。」(岩波文庫ワイド版 189頁)

梯実円「花と詩と念仏」よりメモ

梯実円「花と詩と念仏」よりメモ

「生にとらわれて死を拒絶することも、死にあこがれて生を拒絶することも、ともに正しく人生を見ていない。
生死を越えるとは、生と死を真反対のこととして把える思考の枠を破って生と死を等分に見ていけるような視点を確立し、生きることも尊いことだが、死もまた尊い意味を持っているといえるような精神の領域を開いていくことだ。
そのような人にとって、若き時も、老いてからも、健康も病いも、愛するものにも、憎まねばならないような相手に対しても、等分に、尊い意味を確認して合掌しつつすべてを受けこむことができる。」