千住真理子さんの演奏を聴いて

今日は、千住真理子さんのコンサートがアクロス福岡であったので聞きに行ってきた。

千住さんの演奏は、十二年前に聞いたことがあり、その時も感動したけれど、今日もとても素晴らしかった。

 

曲目は、

 

J.S.バッハ無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番より第5章「シャコンヌ

J.S.バッハG線上のアリア

J.S.バッハ:アリオーソ

J.S.バッハ:主よ、人の望みの喜びよ

ベートーヴェンアダージョカンタービレ~「悲愴ソナタ」より

ベートーヴェン:ロマンス 第2番

ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ 第1番 ト長調「雨の歌」作品78

ブラームスハンガリー舞曲 第1番

 

で、アンコールで、タイスの瞑想曲と、ロンドンデリーを二曲も演奏してくださった。

 

バッハのいくつかの曲と、ベートーヴェンの二曲は、特に心に響いた。

ロマンスを聞きながら、自分の人生はとても良い美しい人生だったような気がした。

音楽の癒しの効果というものはすごいなぁとあらため思った。

 

ストラディバリウスのバイオリンは、音色は素晴らしいけれども、きっと弾くのはすごくエネルギーがいるんだろうなぁと、わりと間近の席だったので、見ていて思えた。

 

日独交流160周年のイベントだったそうで、それでドイツの3Bの曲だったのだけれど、本当にどれも素晴らしかった。

今度は十二年も経つ前に、また千住さんのコンサートを近いうちに聞きたいと思う。

てれふく「“生きる”ことを教わった〜ホームレス支援の若者たち〜」を見て

昨日、てれふくであっていた「“生きる”ことを教わった〜ホームレス支援の若者たち〜」を見た。

www.nhk.jp


北九州でホームレス支援を長年行っている奥田知志牧師の抱樸館と、その職員の若いスタッフの特集だった。


顔の見える関係や絆をつくることの大切さや、具体的な誰かとのつながりが生きる力を与える、という奥田牧師の御話は、聞きながらなるほどと思った。
人間関係の希薄化が進んでいるとの指摘も、そのとおりと思った。


たぶん、インタビューされていた抱樸館の若いスタッフの女性の方は、福岡市内のホームレス支援のところで一度だけお会いした記憶がある。
もう五、六年前の記憶なのでうろ覚えだし、向こうはぜんぜん覚えていないだろうけれど、たぶんこの方だったように思う。
ご結婚されたそうで、良かったなぁと番組を見ながら思った。


抱樸館には、スタッフにもボランティアにも、二十代三十代の若い人もけっこう集まっているそうで、偉いなぁと思った。
そういう場があると、また生きていく力を取り戻す人も、大勢いるのだと思う。


なお、今日の夜にETVで、別の奥田牧師についての番組があるそうである。

こころの時代「水俣いのちの海のただなかで」を見て

録画していたETVのこころの時代「水俣いのちの海のただなかで」を見た。

緒方正人さんと緒方正実さんの御話で、家族の水俣病による苦しみや死や、御本人の苦悩や体験を通じた御話をされていた。

 

実は私は、2013年に緒方正人さんの、2017年に緒方正実さんの講演を、それぞれ福岡でお聞きしたことがある。

どちらにも感銘をその時に受けた記憶がある。

ただ、月日が経つ中でせっかくの御話の内容を恥ずかしながらだいぶ忘れてしまっていた。

この番組を見て、あらためて考えさせられる深いことばの数々に胸打たれた。

 

緒方正人さんがおっしゃっていたことで、あらためて考えさせられたのは、水俣病は人間が人間を人間として見ていないところに起こったのではないか、ということだった。

そして、その背景には、魚などの生きもののいのちや存在を、ずっと無視してきた、そうした人間のあり方の問題もあったのではないか、ということだった。

つまり、近代の文明のありかたそのものを問い直すのが水俣ではないかということだった。

人間中心主義を問い直し、生命という基盤に立ち、組織や利益ではなく同じ人として接することの大切さを訴えるそのメッセージは、本当にともすれば近代においてなおざりにされ過ぎてきたことなのだと思われた。

 

緒方正人さんは自分自身の罪も深く見つめ、国家や企業の組織に対する怒りや怨みではなく、人間として一人一人に語りかけることや、共に立つ場をつくることの大切さに思い至るまでの御話をされていた。

緒方正実さんは、差別を恐れてずっと自身が水俣病の患者だったことを隠して生きてきて、やっと勇気を出して名乗りだしたら、行政から患者とは認められないと言われ、自分の人生が否定されたような悲しみに打ちのめされたことと、十年経ってから潮谷熊本県知事が謝罪して患者と認定された時の嬉しさを語っておられたけれど、これも人間としてきちんと向き合うかどうかという問題だったのだと思う。

このことは緒方さんたちだけの体験にとどまらず、本当にすべての人にとってとても大事な知恵というか、貴重なメッセージなのではないかと番組を見ながら思えた。

 

二十年ぐらい前に水俣には何度か行ったものの、それきりなので、また行ってみたいと思った。

 

 

 

https://www.nhk.jp/p/ts/X83KJR6973/episode/te/X4NN2X45ZJ/

BSドキュ「ゴルバチョフ 老政治家の“遺言”」を見て

録画していたBSドキュメンタリーの「ゴルバチョフ 老政治家の“遺言”」という番組を見た。
去年の制作の番組で、90歳になるゴルバチョフのインタビュー番組だった。

「大切なのは命であり、命をどう扱い、扱われるかということだ。」

というメッセージには、感銘を受けた。

二十年前に妻のライサを亡くしたことに関する話の中で、

「一人の女性を愛し、愛されること、それ以上に高尚なことが人生にあるかね」

と言っていたのにも、あらためて誠実な愛妻家だった様子が伝わって来て胸打たれるものがあった。

大統領を辞めた時、ゴルバチョフが持っていたのは質素なアパート以外財産らしいものはなかったそうで、本当に真面目な清貧な政治家だったのだなぁと感心させられた。
その後は、ずっと講演をたくさんこなし、講演料で家族たちを養ってきたそうである。

詩がとても好きで若い時からたくさん暗唱してきたそうで、会話の中に詩の引用や歌を混ぜながら話す様子も、印象的だった。
このような教養人は、なかなかもはや今の世には政治家になりにくいのかもしれない。

ゴルバチョフの祖父は死刑宣告を受け、あとで無実と分かり釈放されたものの、ひどい拷問にあったそうで、その祖父の思いの影響が大きかったそうである。
また、妻の母方の祖父は処刑されていたそうである。
革命やスターリン粛清の時期には、どの人の家族もそのような目に遭っていたのかもしれないと、聞きながらあらためて驚いたし、ゴルバチョフペレストロイカの背景にはそうした家族たちの無念の思いがあったのだなぁと感じさせられた。

私は高校生の時に来日したゴルバチョフの講演を福岡で直接聞いたことがあり、たぶん当時は六十代ぐらいだったのだろうか、ゴルバチョフは今よりずっと若かった。
ゴルバチョフも年をとったなぁと番組を見ながら感じたが、激動の時代を経て、自分の思う通りには世の中が進まなくても、静かに運命を受け入れて自分なりの人生を生きている様子には、たいしたものだなぁとあらためて感心した。

ゴルバチョフのような人があの時期にソ連の指導者になったことは奇跡だったような気もするが、そのような奇跡はめったにないわけで、あんまり詩を愛する心もなくつまらない人間がこれからの時代は政治においてどこでも跋扈しがちなのだろう。
それはそれでいたしかたないことなのだろうけれど、やはり政治の世界にも、命を何よりも大切にし過去の人々の無念の思いを無にせず自由や正義をもたらそうと努める、そういう人が現れて欲しいようにも思えた。
それはかつてゴルバチョフがいたことを考えれば、必ずしも全く可能性が絶無というわけでもないのだろうとは思う。

 

https://www.nhk.jp/p/wdoc/ts/88Z7X45XZY/episode/te/371K5J4MLX/

八幡愚童訓乙本 不浄事

 

不浄事。

 

右、御詫宣に、吾れ神道と現れて、深く不浄を差別するゆえは吾れ不浄の者と、旡道の者を見ば、吾心倦みて相をみざるなり。我人五辛肉食せず、女の汗穢各三日七日、死穢は三十三日、生穢は二七日なりとぞありし。香椎の宮には、聖母の月水の御時、いらせたまい所とて、別の御殿を作り、御さはりの屋と名付けたり。神明なを我御身を忌れたまう。いわんや凡夫の不浄つつしまざらんや。東大寺の大菩薩の御殿の後にして、大宮司田丸、女祢宜を嬈乱しけるを、人はいかでか知るべき、御詫宣によりて、十五年流罪せられにけり。御許山の舎利会に、一人の俗女房をすかして、人の見ぬ谷の底にて犯しけるほどに、二人共にいだき合いて、離れずして命失せにけり。その体とり合いたる様、近来までありといえり。寛治五年二月に、兵庫頭知定、二十余日になる産婦と同宿して、神楽に参勤す。たちまちに鼻血をびただしく出でたり。同八月のころ、知定が女子十歳ばかりなるが、違例して、我は八幡の御使いなり、汝産婦に懐抱して、御神楽え参りしかば、鼻血をたらして告げ示しき。それより御勘気ありしかども、汝が歌を愛したまうところなり。はや御神楽に奉仕すべし。また肉は更に不可服、大菩薩にくませたまふものなりとありき。中ごろ一人の女房参籠してありけるを、ある児常に逢いて嬈乱しけり。女房宝前に通夜したりけるに、びんづら結いたる若君、白杖を以て打ち驚かして、「しめ結いて苔の莚を敷きしより二人はここに人のふさぬぞ」と見えたりける。

かように不浄を忌みたまうを、御詫宣に汚穢不浄を嫌わず、謟曲不実を嫌うとあれば、婬欲死穢はくるしからぬ事なりとて、はばからぬ類多き事、神慮もっとも恐るべし。謟曲不実を嫌うなりと告げたまうをば、すべてあらためず、汗穢不浄を苦しくあるまじと申す様、前後相違の詞なり。内心は清浄正直なれども、外相に行触の穢れ、利益の為に大慈悲に住して、いささか不浄にあらんこそ、今の霊詫の本意なるに、我意に住して浄穢を分たぬ者、ただ畜生にことならず。近来京より仲蓮房という僧当宮に参りけるほどに、鳥羽の小家の前に、若女人打ち泣きて立たり。事の有榛、悲しみの色外にあまりて見えければ、立ち寄りて何事を歎きたまうにやといいければ、我母にてある者、今朝死にたるを、この身女人なり。また独人なれば送るべきに力非ず、小分の財宝もなければ、他人にあつらうべき様もなし。為す方なさの余りに、立ち出でたるばかりなりといいければ、げにも心の中糸惜しくて、たへ送りてまいらせんてと、内へ入りかい負いて捨けり。この女人の喜ぶ事なのめならず。さるほどえ仲蓮房思う様、慈悲の心をもて、不慮の汗穢に触つるこそ神鑑恐れあれ。さればとて今月の社参をかくべきも旡念なり。いかがすべきと案じけるが、とにかくしておずおず参りて、内廊はなお憚りありと思いて、外廊に通夜したりけるほどに、夢に宝殿の内より、黒衣の僧出させたまいて、瑞離のもとへ召しよせて、この女人余りに歎きてありつるに、かえすがえす神妙にとりて捨たり。我もかしこにありつるなりと示したまいけり。誠にもかようの不浄は、何とて御忌みあるべきぞ。一子の慈悲を垂ると霊詫にもあるなれば、人を憐むこれ清浄の心にて、汚穢の恐れあるべからず。およそ大菩薩の本地をいわば、妙覚果満にして、内証の月高く晴れ、垂跡をいわば、第二の宗廟として、慈悲雲遍く覆うがゆえに、細々の賞もなく、小々の過も遁るに有似り、譬えば老子経いわく、大方は隅なく、大音は希声、大白若辱、大直は屈するがごとく、大成は欠くるがごとく、大盈は沖するがごとし。小利を去らざれば、則ち大利を得ず。小忠を去らざれば、則ち大忠に至らず。ゆえに小利は大利の残なり、小忠は大忠の賎なりというが如し。現当の大利益を施したまわんと思しめすがゆえに、大事の前には小事旡きをや。なれども末社の眷属の小神は、その罰ことに厳重なり。ここを以て松童の明神の御詫宣に、大神は梢いかり、小神はしばしばいかるとあるぞかし。誉田の山陵をほらんとせし時は、御廟光たりしかば、盗人恐れてうせぬ。去る正月三日、また堀り奉るに、大地震動し、雷電陵の内より鳴り出て、近隣の郷々村々まで鳴りまわり、車軸の如く大雨くだりなんどせしかば、鋤鍬をすてて、前後にまどひて盗賊去ぬ。西大寺の社頭の神木をきりし下部等皆々重病をうけ、大略くるひ死にぞ死にける。奉行の僧も病悩身を責めければ、種々のおこたり申しける。御詫宣に広大慈悲の体なれば、吾は兎も角も思わねども、眷属の小神どもが怒るなり、旡力とぞ示したまいける。文暦年中に、神輿宿院までくだらせたまいたりしかば、武士ども多く守護し奉る。その下部一人酒に酔いて、若宮の御前の橘を、木に付ながらあうのきてくひ切りたりしかども、とがむる人も無かりしに、とどめき走りき。東の鳥居の下にて、倒れて軈て死にけり。その時は不思議多かりし中に、流星天より飛び下り、御輿の中へ入りたりき。大なる御鉾は、自然に北の門に立ちたりき。やさしき事のありしは、公卿天上人多く京より参り、高坊の堂上に着坐有しに、土御門前内府すこし遅参して、門の辺に立ずみて、君父庭にあり。則臣子堂にをらずといへる本文は、御存知有にやと有しかば、堂上の人々皆いそぎをり給しこそ、時に取て才学いみじかりし事なれ。また弘安の神輿入洛の時、あしく奉行したりし武士は、その夜の中ににわかに死え失て、放ち禦ぎ奉し者は、不慮に所帯を失て、有に旡甲斐成にけり。正き神敵は配所に趣きつかずして死失す。かの住所今に荒野にて、その跡に人なし。建治年中に四月三日の日使に当りし者、山門に身を入て難渋しけるが、終にまけて日使つとめたりしかども、神事違例の科難遁かりしかば、ほどなく一家悉く病死て、その跡荒畠となり。財宝は他人の物とぞ成にける。また安居頭役の料とて、納をきたりける銭貸を盗人入て取けるが、身すくみて銭をとらへてはたらかず、主人社頭より下向して、見付てとらへたりけり、又淀の住人のありしが、大徳人なりしが、安居の頭に当りければ、親疎のとぶらいその数多かりしを、皆も入らず。まして我物は一塵の煩無りければ、神事おろそかに勤めたる科にて、物狂に成て、貧窮第一になるとぞ申ける。それ不浄というは、婬欲肉食触穢のみにあらず。心の不信なるをいうなり。かようの冥罰も、眷属の小神の御所行にて、厳重の事あるにや。たとい疋手を運び財宝の施を備うとも矯慢名聞の為ならんには、さらに御納受あるべからず。御詫宣に、吾銅焔を飯とし食すとも意けがらわしき人の物をば受けず。銅焔を座とすとも心穢れたる人の所に到らず。おのが愚意に任せて旡道悪事を好む者を、不浄穢心という也。諸悪を造らず、修善常に行じて、自浄身意、神吾教う文なりと告げたまえへば、七仏道戒の心に相違せず。断悪修善し神盧にかない清浄の人と成るべし。外相よりは内心による事、まぢかき現証あり。

鳥羽より二人の男月詣をしけるが、ある時つれて参社したりしに、橘の三なりの枝一人が前に落たりければ、喜びて懐中す。今一人の男羨しともいうばかりなし。下向通にていうよう、日来同道してこそ参りつれ。利生を蒙らんに差別あるべからず。その橘せめて一を我に与えよというに、かつて以てかなうべからずと、堅く惜しければ、力なくしてここなる所へ入りたまえとて、具して行きて種々の酒を盛り、心をとりすまして、その橘実にはくれずとも、ただくるるとおおせられよと頻にいいければ、安きことなり、皆参すという。この男祝い籠りたりとて、酒三度のみて懐中する様にもてなしけり。橘もちたる男は、日来にかわらず、橘も取らざりしかども、たまわりたる様に振る舞し男は、不慮に大徳つきて、身に余る程の富貴になりけり。これすなわち物にはよらず、心による信ならずや。

また淀の住人あり。世間合期せざりけるを、測らざるに安居頭にさされたりければ、身にはかなうまじき事なれども神の御計らいにこそ有らめとて、すべていたまず、夫妻共に精進して、参宮の祈り講じけるほどに、宝殿の内より大なる百足はひかかりければ、これ福の種なりと仰て、袖につつみて宿所にかへり、深く崇め祝けり。誠の神恩にて有けるにや。所々より大名ども来て、問丸となりける程に、多徳つきて、安居勤仕するのみなあらず。当時まで淀第一の徳人なり。これは心も誠あり、物をも賎くせねば、内外相応の利生なり。また八幡の御巻数なりとて持て行たりけるを、布施なんど与ん事をや、うるさく思ひけん。去事旡とてをい返しけるを、隣の家主これを見て、よび入りて、その巻数我に与えよといいければ、安きことなりとて置きければ、種々にもてなし祝けり。その夜、この家主夢に見る様、百鬼夜行とをぼしくて、異類い形の輩、我家の中へ入んとしけるが、やら八幡の御巻数の有けるよとて、各々馬よりおりて礼拝をいたして、立ち帰りて、御巻数ををいかへしたりける隣の宿所に入ぬと見て、ひへ汗たりて驚きぬ。その朝より彼家内に、上下一人も残らず、悪き病を受て死に失にけり。巻数と申すは、その人の為にとて、祈したる経等の数を書てやるなれば、今請取たる人の為には、一分も廻向せざりし祈也といえども、信心に引れて、本の願主には祈とならず、今の家主が災難を禦ぎしも、不信を不浄といひ、信心を清浄とするにあらずや。

八幡愚童訓乙本 正直事

正直事。

 

右、大菩薩、已に八正道より権迹をたれたまえば、群類の謟曲を除かんと思しめすゆえに、御詫宣に、神吾れ正道を崇め行わんと思うは、国家安寧のゆえなりとある。誠にも非法を旨とし、正道を捨つる時は、その国必滅亡する事なれば、邪をすて正に帰よとなり。生死の稠林には、直木は出やすく、曲る木は出る事なし。現当の為に正直を専らにすべきものなり。武内の大明神の、昔大臣として応神天皇に仕えたまう時、舎弟の甘美内宿祢、旡実の讒奏を以て、已に武内誅せられんとせし時、両方かたく相論ありしかば、銅の湯に各手を入れて、損ぜざるを旡実とすべしと勅宣ありしに、武内の御手は水にりたるが如し。甘美内の手はししむら皆落ちにけり。されば武内は旡実の罪を受くるをば、因位を思しめし出でて、なこそ憐み給ふらめ。和気清丸は、勅使として道鏡が事大菩薩に申されし時、ありのままに御返事を申したりとて、両足をきられしも、御殿の内より五色の蛇出てねぶり、元のごとくなりしも、正直をあはれみたまうゆえなり。

その時の御歌にいわく、「ありきつつ 来つつ見れども いさぎよき 人の心を 我忘めや」とありしこそ、旡類世のためしなれ。

 巡拝記いわく、応神天皇の御宇九年夏四月に、武内宿祢を筑紫に下して、百姓を見せしむる時に、武内の弟甘美内宿祢、兄の職をこころざして、天皇に讒言していわく、武内宿祢王位を望む心あり、新羅・高麗・百済をかたらい、都をせめんとす。天皇これを聞こしめして、則軍兵を差進して、武内を討たしめんとす。この事鎮西にきこえて、武内歎きていわく、吾もとより二心なく、君に仕うるを以て事とす。何ぞ旡罪うたるべきや。ここにかの国に真根子というものあり。年たけてかおだち武内に似たり。かの翁来たりて武内に申さく、今大臣とがなきにうたれたまわんとす。君の清き心を明らめんと思う。しかるに人皆君の姿にたがわずといえり。我代って剣に当りて死せんと思うなり。早くちかふて都に登りて、開き申したまえという。武内大いに悦びたまいて、南海をめぐり紀の湊に至る。軍兵鎮西に至りて、真根子を見て武内と思うて、頭を取りて上る。その後武内参じて、天皇にすごさぬ由を申すに、天皇甘美内を召して、武内に対せしむ。二人御前にて堅く論じ争うに、是非定めがたし。天皇勅して、銅の湯を沸して、神祇に祈りて、手を中に入れよ、とがなからん者は、その手損ずる事旡からん。ここに甘美内の手を入れしに、肉皆落ちて骨ばかりに成り、武内の手は水に差し入れたるが如く損ぜず。武内大臣太刀を取りて、甘美内を打て顛して害せんとす。帝こいゆるさせたまいぬ。

増源といいし僧の御示現に、もし人心正直ならば、我身入ると心中に告げたまう。ある祠官の随分正直にして、神慮に叶うらんと見えしが、猛悪不実の傍輩に超越せられて、所職を退き、恨み深かりしに、御示現に、かの敵人は、天王寺にて四種の大供養をとげたりし福業を果たすなりとみて、後は歎きのやみぞ晴れにけり。たとい今生にいかに悪とも、前世の福因あらば、今生はさかえ、来世には苦患を受くべし。今世に正直憲法なれども、福報なきは前生の悪業遁れぬゆえなり。今生によき人の思いの如くなくとも当来には必ずいみじかるべし。毘尼母論高、破戒にして施を受くれば、必ず感現報に、腹すなわち破裂けて、袈裟身を離れ、あるいはこの相旡くんば、為めの生報有らんがゆえなりといえるが如く、猛悪不実の人は、現世に神罰をあたりぬれば、来世の為なかなか罪をつぐのいて受くべし。極重罪の輩は、仏神の加護に離れはてて、その罰だにも旡ければ、来世の悪道にあるべしと。よくよく恐れ慎しむべし。前世の福因なくて、今生貧しき者、また過去の福業によりて、よき人の悪しき振舞いすれどもとがなきを見て、悪しき事するは、鵜をまなぶ烏の水に沈むが如し。目蓮尊者の外道にうたれて死し、迦留陀夷の壇越に首をきられし。四果の聖者の癩病をいたみ、三界の独尊の頭風を苦しみたまうこと、酬因感果のことわり、まのあたりのがれ難きがゆえなり。およそ御詫宣に、正直の人の頭をすみかとす、謟曲の人をばうけずとあれば、心正直なるによりて、大菩薩その頭にやどりたまうならば、天魔悪鬼は恐れをなし、七珍万宝はおのずからいたりなん。二世の所願は一心の正直にあり。

八幡愚童訓乙本 受戒御事

受戒御事。

 

 右滅罪生善のはかりごと、正法久住の徳、出家受戒による故、たとひ宝塔を起て、忉利天に至るも、また出家・受戒の功徳に劣り、戒はこれ旡上菩薩の本と。もし大利を求まば、まさに戒を堅持すべしといへり。このゆえに、大菩薩も御許山の石体の坤にあたり、三四町を去りて、御出家ありしかば、御出家の峰と名付けたり。宝亀八年五月十八日御詫宣に、明日辰時に沙門となりて、三帰五戒を受くべし。自今以後、殺生を禁断すべし。ただし国家のため、巨害の輩出来の時は、この限りにあらずと告げたまえるは、大菩薩本地妙覚果満の如来にましませば、事あたらしく御出家受戒の告げあるべからず、神通自在をえたまえど、出家受戒して仏道を修行したまえば、まして凡夫いかでか破戒旡慙にてあるべきと、はげましたまうゆえなり。

 しかれども、なお深重の利益を施したまはんとて、国家の敵はその限りにあらずと、御詞を残したまえり。それ戒を受くるに、その時はたもだしなんと、誓いには得戒する事なしといえども、この御誓願は情見の上にあらねば、疑をなす事なかるべし。御詫宣に、神吾れ国家並びに一切衆生、利益の意ふかきに依りて、蛇心をこるなり。蛇心に変じ起しゆえは、衆生の心をとらかして、戒道に入れ、更に悪道に行しめずして引導せんがためなり。またいわく、末代に及んで、仏法威衰ろへ、邪法さかりにして、父母に孝順する人なく、国王非法ならんその時の人のために、神道と現ずるなりとは、神道としてその罰あらたなるには、悪業を好む人も、不孝の輩も、神罰をはばかるゆえに、不孝非法のためとあるこそ、末代我らが恐るべきことなれ。非法を反さば正法となり、不孝をあらためば孝順となるべし。孝はまた戒なり。戒の名を制止とす。ゆえに神道と現じて、非法不孝を制断せんとの冥慮なり。

御出家の峰を、十四五町去りて、正覚寺と号するは、大菩薩この所にて正覚なりたまえるゆえなり。出家受戒の上に、諸善の功徳を生じて、正覚なるべき由を示したまうものなり。この山には、大菩薩、摩訶陀国の椙の種をとらせたまいて、栽えたまいけるとて、九本の大杉あり。御袈裟を掛けさせたまいたりけるとて、袈裟の跡、杉の木に見たり。あるいは、御沓、御利刀を残され、あるいは御硯をとどめたまいたりとて、今は皆岩と成りたれど、その姿はかわらず、御硯の石の中に穴あり。穴の中水たまる。いかなる旱魃にも、この水ひる事はなかりしに、文永の蒙古襲来の刻、この水かはきたりけり。凶徒退散して、元の如く水満ちたりとぞ申しける。神慮いかなる事ならん。覚束なくぞ覚えける。正像末の三の鉢、正像の鉢は石となりて水もなし。末法の鉢には水の滴りうるをへるとぞ見えたりける。一丈余の大磐石、中比二つに破れて、その中に阿弥陀の三尊おわしけり。これ只事にあらず。大菩薩の御本地のあらわれたまうにこそとて、石体権現の御前に安置し奉れり。かくのごとくの不思議多かりけり。弘法大師いわく、それ発心して、遠渉するには、非足不能趣向仏道、非戒寧到哉心須、顕密の二戒堅固に受持し、加えて眼命を謹み、身命を弁え犯すことなかれ。天台大師いわく、諸趣の昇沈は、依戒の持毀にと釈したまえば、戒をたもたずして、生死の苦域を出る事あるべからずという心をえて、西大寺興正菩薩、我朝に律儀のすたれたる事を歎きて、三聚浄戒を自誓得戒して、七衆の師範となり、比丘の法を興行せられしに、様々同心の輩十余人出で来るといえども、僧食の沙汰に及ばず、身命を三宝に任せて、大悲闡提の利益を専らにしたまうほどに、ある夜少真睡たる夢に、男一人袋に米を入り持ち来て、前々は僧すくなくして、時料はこぶもやすかりしが、今は僧の数まさつて、食運ぶに余りに苦しきなり。ただし僧をいとふ事なかれ、食をばいか程も運ばずべしと申しければ、いづくよりぞと問わるるに、八幡よりなりとて去りたまう。戒法の流布は、神慮に叶い、御納受ありける宇礼志さよとて、被寺の鎮守には、大菩薩を祝ひ奉る。擁護あさからずましますゆえなれば、僧徒多しといえども、一項の田も作らず、一枝の桑もとらねども、飢寒に餓死する者一人もなき事、大菩薩の食物を運ばしたまうゆえなり。また八幡境内へ、律院を興隆せんと願をたてられしによりて、大乗院を点て戒法をひろめ、日夜朝暮に法味を備へ奉がゆえに、ある祠官の夢に、毎日にこの寺に御幸ありとぞ見たりける。

 また御詫宣に、真言灑水をもて、道場をきよむるを、和光の栖とするなりとあるを以て思うに、水はこれ清冷生長の徳あり、清冷のゆえに煩悩の熱毒を除く断悪なり。生長のゆえに菩薩の花菓を開く修善なり。道塲は社壇の地なり。戒はこれ仏法の大地なり。この大地は衆生の心地なり。されば断悪修善の戒水を、真言不思議の加持を以て、我らが心地にそそぎて、不浄きよまらん所に、和光を写したまうべし。それ仏法には戒を最初とし、真言を究極とす。治浄先々、引発後々のいはれによりて、戒を持ちて真言を修め、初後円浄なる心水に、大菩薩かけりたまうべしと信じて、持戒いよいよ堅にして、秘密修行おこたらざるべきをや。されば興正菩薩戒を専らにし、真言を内証としたまいせしかば、信に神慮に叶い、冥見に透りて、五代の帝王御受戒の師範とし、道俗男女五八具の戒を受くる事数万人に及びき。受職灌頂の弟子も多し。当社大法会の時は、上皇御殿を去り、庭上に向いたまいしかば、卿上雲客は首を地に付け、恭敬の気色ふかかりき。和漢の国主師を貴ぶ例有りといえども、加様の事はためし少し。三界の諸天はその足を戴き、四種の輪王ははきものを取るに足らずと、出家受戒の人をほめられたるこそ眼前なれと、見聞の輩随喜の泪を流しけり。上皇礼をいたしたまうこと、大菩薩の宝前にてもありし事は、我神の擁護によりて、戒徳いみじき様を示し給ふにあらずや。在世の面目のみにあらず。菩薩の号を古墳の苔の上におくられ、遠忌の仏事には院宮を始まいらせ、竜蹄御剣をたまい、種種の珍宝を送られ、門徒日々に繁昌して、本寺に数百人居住し、散在の五衆は六十余州に満ちみちて、幾千万という事を知らず。我朝の戒行、前代もかようの事なし。ただこれ大菩薩の御方便なるによりて、濁世なりといえども、持戒の僧尼おおきこと、仏法の恵命をつぎ、国家の福田たり。早禁戒受持して、常爾一心、念除諸益のゆえに、生死の魔軍を摧き、菩薩の彼岸に至るべし。剃髪染衣をのみ持戒というにあらず。接末帰本するは、一心を本とし、一心の性は、仏と異なることなし。この心に住み、即ちこれ仏道を修行すと。この宝に乗して、垂に直に至ると。道場にあれば、外には三業の悪を禁じ、内には三密の観を凝らして、一体三宝を信じ、六和具足を思いて、即事而真の道をあらわすべし。弘法大師いわく、不作悪業当是可仏を然し造るなる、悪業をなすは迷の衆生と釈したまえば、断悪修善これ仏法の大綱、御神の納受しまします所なり。