ドラマ『フォーガットン・アーミー』を見終わった。
インド国民軍を描いた作品で、シンガポール陥落あたりから話が始まる。
イギリスと日本の間で、当時のインド人の一般兵士たちはさぞかし大変だったろうなぁと見ながら思われた。
第二次大戦中、二百五十万人のインド人がイギリス軍兵士としてドイツや日本との戦いに従事したそうである。
また、五万人以上のインド人がインド国民軍として日本側に立ってイギリスと戦った。
インド国民軍には女性部隊もあり女性兵士もいたそうである。
ソビエトにもいたので、世界初というわけではないのかもしれないが、かなり早い部類には属すると思われる。
作品では、主人公と女性兵士の淡い恋なども描かれて、彼らにも彼らなりの青春があったんだろうなぁと思えた。
インド国民軍の兵士たちが、「デリーへ!」としばしば作中で声を上げ、インドを目指して進軍する姿には、見ていて目頭が熱くなった。
もちろん、インパール作戦は失敗に終わり、その多くはインドに辿り着くことなく戦死し、捕虜となった人々は反逆者として惨めな思いをせざるを得なくなった。
だが、テロップで最後流れるが、反逆者として多くのインド国民軍兵士たちが戦後に裁判される中で、インドの国中に裁判を通して彼らの思いや真実を知り、イギリスに反乱を起こしてインド国民軍を名乗る兵士たちが相次ぎ、とうとうイギリスも匙を投げてインド独立を認めることになったそうで、インド国民軍は決して全くの無駄に終わったわけではなく、インド独立に貢献したようである。
アマゾンプライムで見ることができるので、見ることができる方にはお勧めしたい。
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フランスの小さな村についてのニュース
二二六事件から八十五年
今日は、二月二十六日で、二二六事件から八十五年が経った。
民主主義と暴力の関係は、今も切実な問題である。
実際、つい最近も、アメリカでは一部のトランプ支持者が暴徒化して議会に乱入する事件が起こった。
ミャンマーでは今現に実際に民主主義を停止して軍部によるクーデターが起こっている。
そこまで実際の暴力行動が行われていなくても、日本も含めて多くの国々で民主主義に対する疲れや苛立ちを感じている人がしばしば見かける時代となった。
議会制民主主義というのは、時間がかかる。
すべて議会における手続きが必要で、その手続きもめんどくさい。
そしてまた、現実の社会というのは複雑で多様な利害や考えが存在しており、その調整や合意をとりつけていこうとするととてつもなく時間がかかる。
ゆえに、議会や民主主義はめんどくさいと感じて、一足飛びに改革や革命を起こそうと考える誘惑に、真面目な人ほど時にはかられるのかもしれない。
実際、二二六の青年将校たちは、その遺書を読んでもよくわかるが、とても真面目で純粋な人々だった。
たしかにその思考は短絡的だったかもしれないが、陸軍士官学校を首席で卒業した人物などもおり、己の保身や自己利益だけを考えるならばわざわざリスクを冒してあのような事件を起こしはしなかったろう。
彼らなりに、貧富の格差のひどさや、その是正が行われないことへの怒りや苛立ちから、貧しい人々をなんとかしなければならないと思って事件を起こしたのだろうと思う。
しかし、問題は、議会制民主主義を無視して、一足飛びに改革を実現しようとして強引なやり方や暴力を用いたとしても、決して良い結果は生まないということである。
二二六事件も結局は失敗に終わり、多くの人命がいたずらに失われただけだった。
渡辺錠太郎や高橋是清など、冷静になって考えてみれば殺す必要のない立派な人物たちが殺害されてしまい、その遺族たちにも深い心の傷を残すことになった。
彼らを君側の奸や国賊とレッテルを貼って殺害した二二六の青年将校たちは、あまりに短絡的だったと言えよう。
また、鈴木貫太郎は重傷を負いながら奇跡的に命が助かったが、もし二二六事件で鈴木貫太郎まで死んでいた場合、はたしてその後の歴史において1945年8月の終戦が可能だったかどうか、さらに戦争が長引いたかもしれないことを考えると、ぞっとするものがある。
短絡的なレッテル貼りによる暴力ほど、不毛で損害の多いものはない。
いかに時間がかかり、めんどくさく思えても、議会制民主主義を通して、地道に調整と手続きと合意を形成しながら、一歩一歩社会を改革していくしかない。
そのことを、二二六事件を思う時に、あらためて胸に刻まされる気がする。
そして、そのように思い、議会制民主主義のために地道に自分のできる範囲で努力することが、二二六事件の被害者や青年将校たちへのせめてもの供養になるのではないかとも思う。
生きづらい時代に生きるのは、おそらく1930年代も2020年代の我々も似たようなものかもしれないが、もし違いがあるとすれば、過去の過ちを忘れずに違う道を選択する自由が後世の人間には与えられていることなのだと思う。
アウンサン・スーチーとロヒンギャと軍部について
アウンサン・スーチーに対しては、ロヒンギャの迫害に反対しなかったということで、随分と非難している人々がいたけれど、そういう人々はミャンマーの憲法や政治情勢が分かっていないのではないかと思う。
ミャンマーは半世紀以上軍部が支配していた国であり、通常の国とは全く置かれている状況が違う。
2015年の民主的な選挙よりも前に、軍部はスーチーを排除するために憲法に外国籍の家族を持つ者は大統領になれないという規定を盛り込んだ。
また、憲法改正には議会で四分の三以上の賛成が必要という規定にした。
で、軍部は選挙なしに四分の一の議席を占有することを定めた。
つまり、スーチーが軍部のロヒンギャ攻撃を批判すれば、何の権限もないので軍部の行動を止められない上に、大多数の国民からは支持を失い、2020年の選挙で大敗するのが目に見えていた。
一方、ロヒンギャ攻撃を黙認すれば、国際社会からスーチーは非難され、国際社会の支持を失うことは目に見えていた。
そもそも、ロヒンギャがなぜそこまでミャンマー国内で嫌われるかは根深い問題があり、ビルマ独立の際にロヒンギャを除くすべての民族が結束してイギリスと戦ったのに、ロヒンギャのみ英側についたという歴史がある。
また、イスラム教徒であり、最初にテロを行ったのはロヒンギャという問題もあった。
スーチーは苦渋の選択で、ロヒンギャの問題については当面沈黙を守り、そのために国際社会での支持や人気を失ったが、国民の支持を得る方を選択し、昨年2020年12月の選挙に再び圧勝した。
軍部はこの結果を見て、今回の軍事クーデターを起こした。このままでは既得権益を失うのがわかっていたからである。
以上のような経緯があるのに、スーチーはロヒンギャを助けなかったから軍部のクーデターに対してもそこまで擁護する必要はないと思っている人々は、やはりあまりにも短絡的ではないかと思う。
憲法の制約や状況の中で、なんとかスーチーが一手一手覆そうとしていたことをきちんと見るべきだろう。
欧米のような民主主義が根付き、政府の統制に軍部が服している国々の人々にはミャンマーの状況に無理解になるのはやむを得ないとして、つい七十年~八十年前に、軍部の横暴に苦しみ苦渋を飲んだ日本は、少しはミャンマーの状況に理解を持ち、断固スーチーを支持すべきではないか?
私はそう思う。
バイデンの大統領就任式を見て
バイデンの大統領就任式はなかなか良かったと思う。
あらためてアメリカはたいしたものだと感心した。
バイデンが、アウグスティヌスや聖書を引用していたのはさすがと思った。
日本にはいつこれぐらいの教養と精神的な深みのある指導者が現れるのだろうか。
レディー・ガガの国歌斉唱も堂々としていて良かったと思う。
金色の鳩の刺繡の入った服も、聖書の創世記の希望のエピソードを踏まえていたのだと思う。
ガース・ブルックスが歌った「アメイジング・グレイス」も良かった。
日本も首相の就任式に歌を入れたらいいのにと思った。
アマンダ・ゴーマンの詩の朗読も良かった。
あと、消防隊の隊長が若い黒人の女性で、きびきびとバイデンに敬礼していたけれど、きっとその地位になるまでいろんな苦労や努力があったんだろうなぁと思えた。
大統領就任式自体が、一つの詩のように練られていたのはたいしたものである。
バイデンが、その前日にカーターと話したことや、カーターについて就任式の演説で触れていたのには胸が熱くなった。
思うに、カーターとオバマとバイデンは、あたかも堯舜禹のようにすら思える。
ああいう立派な人物が指導者になれる国は偉大と思う。
アメリカの分断や亀裂についてまっすぐに真摯に取り組み、それらの傷を癒し克服することを、バイデンははっきりと意識していることが演説からはうかがわれた。
いろいろと大変なことはあろうけれど、これから四年間あるいは八年間、良い方向にアメリカと世界が向かっていくことを陰ながら祈りたい。
トランプ支持者の議会への乱入のニュースを見て
昨日のニュースで、トランプ支持者が議会に乱入している映像を見て、驚かされた。
アメリカという、民主主義と現代文明の中心地であるはずの国の首都において、暴徒が暴力で議会に侵入しようとする、「野蛮」としか言いようがない事態が実際に展開されていた。
二十一世紀の文明はその内部にとんでもない野蛮を抱え込んでしまっているということについて、あらためて考えざるを得ない。
インターネットは人を賢くするとは限らず、かえって使い方を誤れば野蛮や迷妄に陥れる。
今回の事態はその証拠なのだと思う。
これは何もアメリカに限らず、日本でもSNSなどを見ていると同じ現象はしばしば見かける。
誤った仕方でインターネットを利用し続け妄想をつのらせた人々は、今後の世界において秩序や礼節や理性や文明にとっての最も大きな脅威となるのかもしれない。
このような暴徒化や野蛮を防ぐためには、学校教育のみならず、あらゆる年代を対象に、社会においてファクトチェックやメディア・リテラシーや礼節や知的誠実さについての教育や喚起が不断に行われていくことが必要なのかもしれない。
民主主義というのは、実は民主主義の制度や手続きや考え方だけではなく、その背景に政治的な民主主義以外の、一定の礼節や作法といった文化的な要素を必要とする。
あまりにも無知蒙昧や野蛮さに満ちた人々がいれば、民主主義そのものの存立が危うくなる。
議会に乱入した暴徒たちには厳正なる法の裁きが行われてしかるべきだけれど、それだけではなく、社会においてこのような野蛮な振舞いは恥ずべきことだという当然の批判と指弾がきちんとなされることを願う。
このような暴徒化を野放しにしたり甘やかすとろくなことにはなるまい。
何よりもあのような振舞いは恥ずかしいという感覚が社会に共有されて欲しいものである。
議会への乱入など、文明に反する野蛮そのものである。
アメリカはよく日本の二十年先の未来をいっているということが言われるが、二十年後の日本においてこのような暴徒が国会に乱入するようなことがないことを願うばかりである。
今回、SNSを見ていていつものことながらげんなりさせられるのは、一部の右派の人々が熱心にトランプを支持していたことである。
作家の百田尚樹氏はその典型である。
彼らは、六年前はあくまで平和な非暴力のデモに徹していたSEALDsたちを「過激派」だとか「テロリスト」などと呼んで批判していたというのに、実際に議会に乱入したトランプ支持者の暴徒たちをろくに批判していない。
もし、これから先、日本にも今回のアメリカのような事例が現れるとすれば、おそらく百田氏や百田氏に扇動されたような人々がこのような事態を起こすのではないかと危惧される。
日本にとっても、今回の出来事は、決して他人事ではないように思える。
百田氏のような人が前首相のお気に入りであり、対談本まで出し、わりと広範な読者を得ていたことを思えば、二十年とは言わず、場合によってはもっと近い未来に日本にも野蛮が吹き荒れ得るのかもしれない。
野蛮に対抗する文明や良心や礼節を自覚的に大切にする人がどれだけいるかが、二十一世紀の世界のありかたを左右するのだろうけれど、どこまで対抗できるのか。
私たちは新たな野蛮の時代の登場を残念ながら目の当たりにしてしまっているのかもしれない。
劉暁波『詩集 独り大海原に向かって』を読んで
劉暁波の詩集『独り大海原に向かって』を昨夜読み終わった。
読後感は、なかなかうまく言い表せないのだけれど、不思議な深い印象を受けたと言えばいいのか。
混沌としたものややるせない鬱積した思いと、清冽な希望や光のようなものが、深い悲しみや怒りとともに、撹拌されていた。
劉暁波は2010年にノーベル平和賞を受賞した中国の文筆家・詩人で、天安門事件に深く関わったために以後は政府当局の厳しい監視や拘禁・弾圧を受け続け、2017年に亡くなった。
この詩集にも、一年ごとに書いた「六・四」つまり天安門事件に対する追悼の詩が多く収録されている。
どれも天安門事件で非業の詩を遂げた人々のことと、あの日の暴力と悲惨さと、その後の経済発展の中で事件が風化させられ忘れさせられていくことへの抵抗が記されている。
また、この詩集には、獄中の劉暁波を献身的に支えた妻の劉霞への愛の詩の数々も収録されている。
苦難の多い人生だったろうけれど、このような純粋な深い愛に恵まれたことは、どれほど劉暁波にとって支えとなり、また稀有なことかと読みながら思わされた。
象徴的な表現でありながら、実感のこもった混沌とした詩の数々は、劉暁波の人生の苦難に裏打ちされたものであり、同時代でものほほんとした先進諸国の多くの文芸にはあまりありえない迫力のあるものだった。
同時代にこんな詩人がいたのかと、読みながら深い感銘を受けた。
未だに中国では、劉暁波が抗議し続けた言論弾圧や人権抑圧は有形無形に社会に張り巡らされており、なかなか変わらないようである。
また、天安門事件そのものがもはや風化させられ、多くの人はそもそも知りもしないのかもしれない。
それは中国国内のみならず、欧米や日本においても、天安事件の記憶はだいぶ風化してしまっているのだと思う。
しかし、劉暁波の詩の数々は、あの日にあったことを痛切に思い出させ、考えさせ続けてくれる貴重なものだと思う。
また、その後の歳月において、愛や自由とは何なのかを、身をもって生きた人の、貴重な言葉の数々なのだと思う。
ちなみに、ひょっとしたらそうだろうかと思いながら詩を読んだあと、解説を読んでいたら、劉暁波は洗礼は受けていないものの、深くイエス・キリストを尊敬し、アウグスティヌスやルターを愛読していたそうである。
そういうところから、この圧倒的なに強い権力にも個人で対峙して恐れない勇気ある精神力が生まれたのだろうか。