一年ぐらい前、矢島楫子についてのドラマがあっていたので見てみた。
http://www.town.mashiki.lg.jp/contents/imgkiji/pub/detail.asp?c_id=2&id=11&pg=2&mst=0&wd=
(以下はその時の感想)
恥ずかしながら、矢島楫子は名前ぐらいは知りながらあんまり詳しい事績を知らなかったのだけれど、えらい人だったのだなぁ。
四十歳の時に、離婚して子どもを郷里の熊本において、教員を志して上京。
その後四十年間、教育活動に活躍し、今の女子学院をつくったり、婦人参政権獲得運動を起こしたり、廃娼運動に努めたそうだ。
明治初期の時代のこと、さぞ大変なことも多かったろう。
矢島楫子の姉三人もすぐれた人物だったらしく、一番上の姉は熊本で女子教育に努め、二番目の姉は徳富一敬の妻となり蘇峰・蘆花の兄弟を生み育て、三番目の姉は横井小楠の妻だったそうだ。
肥後の四賢婦人と呼ばれたそうだけれど、たしかにそうだったのだろう。
親の教育が良かったようで、どのいのちも平等で大切に扱われるべきという信念を矢島楫子らに教えて育てたらしい。
そのためか、楫子が離婚した時も、また離婚したのち、妻子ある男性との間に子どもができたときにも、父親も兄も、あの時代にしてはわりと理解のある態度で、よく楫子を支えたらしい。
熊本にも、えらい人たちがいたものだなぁ。
あと、晩年の矢島楫子は平和運動にずいぶんと取り組み、一万人の平和署名を集めて、アメリカのハーディング大統領に面会し手渡したこともあったという。
そういう試みが、戦間期にはあったのだなぁ。
面白いドラマだった。
人間、四十からでも、いくらでも人生を新たに始めなおすことができるということなのだろう。
「楫子」という名前は、自分で人生の方向は決める、自分で楫をとるという思いをこめて、自ら漢字をつけて名乗ったものだそうな。
また、女子学院では、「自分で自分を治めなさい」ということがモットーで、ほとんど校則をつくらなかったそうである。
えらい人もいたものだ。