Nスペ 「証言ドキュメント 永田町・権力の興亡」

以前、2009年11月頃、Nスペで「証言ドキュメント 永田町・権力の興亡」という三回シリーズがあった。

http://www.nhk.or.jp/special/onair/091101.html
http://www.nhk.or.jp/special/onair/091102.html
http://www.nhk.or.jp/special/onair/091103.html

以下はその番組を見た時の感想。

この十六年間の政治の動きについての特集。

第一回は、細川連立政権とその短期間での崩壊について、当事者達のインタビューをもとに特集されていた。

見ていて、あらためて、あと一年、細川政権がもっていたら、非自民連立政権がもっていたら、だいぶ日本の歴史も違ったのではないかということをつくづく思った。

せっかく、あの時に政権交代ができていたのに、短期間でそれが瓦解して、なんととてつもない遠回りをしてきたことか。

非自民政権が短期間に終わり、すぐに自民が復権して、かくも長き低迷の時代が続いたのには、いろんな理由があったのだろう。
それだけ55年体制の岩盤が厚かったということもあろうし、非自民側の準備や力量がまだ不足していたということもあったのかもしれない。

ただ、インタビューを見てて、あらためて思ったのは、小沢さんと武村さんについての、なんというか、悲しいやら呆れるやらの在り様だった。
武村さんが小沢さんの家に新年の挨拶に行ったところ、小沢さんは一言も口をきかず、武村さんはそれでもうだめだと思ったと話していた。

もうちょっと小沢さんが人間ができていて、武村さんや社会党と穏やかに丸く接していたら。
また、武村さんが、単なる人間の好悪の感情ではなく、新しい政治をつくるという筋を見失わないでいてくれたら、だいぶあの時の政局も違ったのではなかろうか。

小沢さんはまさか自社さ政権ができるとは思っていなかった、みたいなことを言っていた。
あまりにも甘かったということだろうか。
また、さきがけや社会党が、あまりにも節操がなく状況を見誤っていたということもあったのだろう。

どちらも、重大な責任があったとしか言えまい。
個人的には、小沢さんも武村さんも立派な識見のある一角の人物だったと思うが、なんともこんな低レベルの次元で確執をつくってあたら自民の復権を許したとは、なんとも残念でならない。

また、社会党が、今更言ってもどうしようもないけれど、本当に阿呆というか、どうしようもないと思う。
長年55年体制自民党と馴れ合ってきて、本当にもちつもたれつというか、自民党と手を組むとは、党の命運が尽きて弱小政党に転落したのも、自業自得としか言えまい。

自民党が奸謀の限りを尽して政権を奪回したのは、それは自民党としては当たり前のことだろうから、それを防げなかったのは非自民側の力量の不足としか、やっぱり言えなかったのだと思う。

にしても、番組を見ててあらためて思ったのだけれど、細川さんを佐川急便からの借金問題で攻め立てて辞任に追い込んだり、自社さ連立を成立させるには、随分と野中広務亀井静香が働いてたのだなあということだ。
その二人が、のちに自民党の中枢から切り捨てられていったのを見ると、なんとも皮肉な気もする。

政治家の個人的な憎悪や確執などで、せっかくの歴史の転換が押し止められて、国運衰退の長い低迷の原因をつくられたら、ちょっと国民はたまらんなぁとあらためて思った。

随分遠回りな十六年だった。

小沢さんや武村さんや亀井さんや野中さんを、ダメな政治家だとは思わないし、個人的にはそれぞれ立派な政治家だとは思うが、なんとも、先が見えないというか、筋が見えないというか、あれほどの人々にして、しょせんはその時期においてはそんなものだったのだろうか。

本当にこんなに遠回りしなければいけなかったのだろうか。
なんとも残念でならないが、今更言っても仕方ないのだろう。
また、政治家だけの責任ではなく、自民の復権を許し、その長期復権に手を貸してきたのは、他ならぬ我ら一般国民の愚昧さと無知蒙昧と先の見えなさにも大きな原因があったのだと思う。

もう二度と、かかる馬鹿馬鹿しき仕儀がないようにせんとなぁと思う。
それには、世直しを目指す政治家は、まともなコミュニケーション能力と人間としてできた人間であることが必須だろうし、国民も無知蒙昧の愚民から脱して公民としての智徳を身につけねばならぬのだろう。

なんとも、遠回りの十六年だった。
あまりにも取り返しのつかない国運の衰退だが、これからでも、努力次第で多少は失った歳月を取り返せるだろうか。



第二回は、橋本政権後の政治史の特集があっていた。

初の小選挙区のもとでの衆院選で、橋龍の自民が勝ち、小沢さんの新進党が敗れた。
しかし、一万票以内の差の選挙区が七十もあったという。
この時、自民が勝ったことにより、また随分日本の歴史が漂流し遅れた。

橋本さんは、本人としては行政改革に一生懸命取り組もうとしたらしいが、いかんせん、自民党内部の反対によってことごとく骨抜きにされたり潰えたらしい。
そりゃ当たり前の話で、改革はしがらみのない対抗勢力が政権をとることによってしかできるはずがない。

橋本政権において、野中広務がずいぶん動き回って、新進党から人を引き抜き、自民の単独過半数の回復までこぎつけたらしい。

ただ、参院選で自民が破れ、小渕さんが首相になったが、参院過半数を確保するために、また野中さんが随分動き回ったらしい。
いわゆる自自公連立だけれど、自由党の小沢さんと組んだのは、公明党と組むためのクッションだったらしい。
小沢さんは自分の政策を実行する合意をしたために自民党と組んだつもりだったらしいが、公明との連立ができたら、自民党はまったく約束を履行せず、政治改革はなおざりになったそうだ。
小沢さんが甘かったというか、自民の奸謀が相変わらずすごいというか・・・。

小渕さんが急死したあとの森内閣は、思いっきり支持率が低迷したが、その時に起こったのが加藤の乱
加藤紘一のへたれぐあいには、あらためて見ていてがっかりしたが、あの時にもし大きな政界再編に成功していたら、かくも日本がダメな国になるのは防げたかもしれない。
肝心な時に闘うことを避け、敵前逃亡した加藤さんと山崎さんは、かわいそうだけれど、あの時に政治家としての命運はほとんど終ったのだと思う。
あの時にきちんと闘っていれば、あるいは二人とも首相になる運も開けたのではなかろうか。

加藤の乱の時も、野中広務がずいぶん動き回って、加藤派や山崎派を切り崩して、加藤の乱をつぶすことに貢献したらしい。

こうやってみると、野中広務は、個人的にはそれなりに立派な人かもしれないし、その理念も立派な部分もあると思うけれど、ずいぶん日本の政治改革の芽をつぶし、自民の延命のために動き回ってきたわけで、なんとも罪業深重なのではないかと思った。

今更言っても仕方がないが、小選挙区制のもとでの最初の衆院選で非自民が橋本さんの自民党に勝てていたら。
また、そのあとに、小沢さんが自民党にだまされず、自民と公明の連立を許さないでいたら。
また、加藤の乱が成功していたら。

かくも長く、日本が低迷することはなく、遠回りすることもなかったのかもしれない。
まったく、無念でならない。

でも、このように遠回りして、何度も挫折しながらも、非自民勢力が決して挫けることなく、ついに今日の日のありえたのは、遠回りが長かっただけに、ひとしおの思いもあるのかもしれない。



第三回は小泉改革の頃の話。

小泉改革の時代って、あらためて一体なんだったのだろうと思った。
一億総白痴化、といえばいいのだろうか…。
あんな政治的詐術に、国民の過半数、一時は国民の九割もがまんまとひっかかった。

やっといささかまともになってきた気もするが、潜在的には日本の民度など、あのような危うさと愚かさをいつも秘めているということだろうか。

にしても、あんだけ自民党のために尽くしていた亀井さんや野中さんが小泉政権で弊履の如く捨てられていったのを見ると、権力というのは恐ろしいものだとあらためて思ったし、ある意味(権力の行使が巧みという点では)小泉さんはすごい政治家だったのだろうなぁとは思った。

好き嫌いは別にして、この十六年間ぐらいの日本の政治家の中で、プルターク英雄伝や史記みたいな列伝を書くとしたら、最も面白いのは小沢一郎亀井静香野中広務小泉純一郎の四人かもしれない。
ちょっと残念だった人として、武村正義加藤紘一なども書いたら面白いのかもしれない。

にしても、菅さんがインタビューで言ってたけれど、2005年の郵政解散の時の選挙結果を見て、自分の目の黒いうちはもう政権交代はないかもしれないと絶望したとおっしゃってて、ほんにそうだったな〜っと思い出した。
私もあの時はずいぶんこの国に絶望して、もう駄目かと思ったものだ。

世の中は無常というか、四年も経つと、政権交代もちゃんと実現したのだから、世の中わからないし、どんなに状況が馬鹿馬鹿しかったり悪くても、数年経てば変わるということなのだろうと改めて思った。
とはいえ、この数年、いや十六年、あまりにも長い遠回りだった。
これからちっとは国運を挽回できるといいが。


(追記)

せっかく政権交代が実現したものの、民主党の政治は低迷。
小泉構造改革における「リスクの個人化」をきちんと明確に分析して国民に示し、それに対して「リスクの社会化」を対立軸として明晰に示して政策課題として掲げれば、もっと民主党はいろんな有意義な改革もできたしできるのではなかろうか。