「しかし、“希望”はただ受身で待っているもではなく、積極的な姿勢を必要とするものです。」(407頁)
「希望が終る時、地獄が始まる。」
梶大介 『生ききらなければ真実はみえてこない―わがどん底歎異抄』(樹心社)よりメモ
「いつの時代の何処であろうと、生かされた場を生ききっていかない限り、なんにも観えては来ない。
生き切ったところでしか真実は見えて来ないのである。」
(244頁)
「弥陀の本願は即解放されたいとする大衆の悲願であり、
一つのものであって別のものではない。
弥陀は遠くに掲げて拝むものではない。
念仏とは大衆をその宿業の一切から解放して行こうとする行である。」
(200頁)
「真理とは簡単なのである。その真理を説く釈尊の説法は難しくないのである。真理を遠いものとし、釈尊の説法を難しいとするのは、人間が人間でなくなったからである。人間が真理に立とうとしなくなったからである。
即ち、
「生かされている」
という不思議の事実を否定しきっているからである。
「生かされている」
という不思議の事実を素直に受け取ったところに安心があり、念仏が発し、無碍の一道がある。
必要なものは必要なだけちゃんと備わってくる、困っても困らない生がそこにある。いや、すべてははじめからちゃんと用意されているのである。」
(258頁)
レイモンド・ムーディー『かいまみた死後の世界』より
(臨死体験をした人々の証言によれば、人は死後、光の生命体から以下の質問を問いかけられるという)
・「あなたには死ぬ覚悟ができていますか?」
・「あなたには死に対する心の用意がありますか?」
・「あなたは一生のうちに、わたしに見せられるようなことを何かやりましたか?」
・「あなたは生きていた時に、何か満足できるようなことをやりましたか?」
「我が任は六経を極め大道を明らかにし、以って人心を啓発するにあり。
不幸にしてわが道行われずんば、すなわちこれを文字に遺して知己を後世に求むべきのみ。
区々たる毀誉の如き、なんぞ意に介するに足らんや。」
「志気は鼎(まさ)に盛んにして、眼は一世を空しくす。
誓いて人の為す能わざる所を為さんと欲す。」
(安井息軒)