梶大介 『生ききらなければ真実はみえてこない―わがどん底歎異抄』よりメモ

梶大介 『生ききらなければ真実はみえてこない―わがどん底歎異抄』(樹心社)よりメモ


「いつの時代の何処であろうと、生かされた場を生ききっていかない限り、なんにも観えては来ない。
生き切ったところでしか真実は見えて来ないのである。」
(244頁)

「弥陀の本願は即解放されたいとする大衆の悲願であり、
一つのものであって別のものではない。
 弥陀は遠くに掲げて拝むものではない。
念仏とは大衆をその宿業の一切から解放して行こうとする行である。」
(200頁)


「真理とは簡単なのである。その真理を説く釈尊の説法は難しくないのである。真理を遠いものとし、釈尊の説法を難しいとするのは、人間が人間でなくなったからである。人間が真理に立とうとしなくなったからである。
即ち、
「生かされている」
という不思議の事実を否定しきっているからである。
「生かされている」
という不思議の事実を素直に受け取ったところに安心があり、念仏が発し、無碍の一道がある。
必要なものは必要なだけちゃんと備わってくる、困っても困らない生がそこにある。いや、すべてははじめからちゃんと用意されているのである。」
(258頁)

人が死後質問されること (レイモンド・ムーディー『かいまみた死後の世界』より)

レイモンド・ムーディー『かいまみた死後の世界』より


臨死体験をした人々の証言によれば、人は死後、光の生命体から以下の質問を問いかけられるという)


・「あなたには死ぬ覚悟ができていますか?」
・「あなたには死に対する心の用意がありますか?」
・「あなたは一生のうちに、わたしに見せられるようなことを何かやりましたか?」
・「あなたは生きていた時に、何か満足できるようなことをやりましたか?」

真木和泉のことば

士の重んずることは節義なり。
節義は例えていえば、人の体に骨あるが如し。
骨なければ首も正しく上に在ることを得ず、手も物を取ることを得ず、足も立つことを得ず。
されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。
節義あれば不骨不調法にても、士たるだけのことにはことかかぬなり。

真木和泉

小早川隆景のことば

おもしろの春雨や、花の散らぬほど
おもしろの儒学や、武備のすたらぬほど
おもしろの武道や、文学をわすれぬほど
おもしろの酒宴や、本心を失はぬほど
おもしろの遊学や、辱をとらぬほど
おもしろの好色や、身をほろぼさぬほど
おもしろの利欲や、理義の道ふさがらぬほど
おもしろの権勢や、他にほこらぬほど
おもしろの釈教や、世理を忘れぬほど

小早川隆景

吉田松陰のことば

万巻の書を読むに非ざるよりは
寧(いずく)んぞ千秋の人と為るを得ん
一己の労を軽んずるに非ざるよりは
寧んぞ兆民の安きを致すを得ん

吉田松陰



(大意)
一万巻に及ぶたくさんの書物を読まないでは、どうして千年の歴史に名を残す人となることができようか。
自分一人の労苦を進んで負うのでなくして、どうして天下の人々を安らかにすることができようか。

安井息軒のことば

「我が任は六経を極め大道を明らかにし、以って人心を啓発するにあり。
不幸にしてわが道行われずんば、すなわちこれを文字に遺して知己を後世に求むべきのみ。
区々たる毀誉の如き、なんぞ意に介するに足らんや。」

「志気は鼎(まさ)に盛んにして、眼は一世を空しくす。
誓いて人の為す能わざる所を為さんと欲す。」

(安井息軒)

島津斉彬のことば

一、人心の一致一和は、政治の要目なり。
一、民富めば国富むの言は、主たる人の一日も忘るべからざる格言なり。
一、人君たる人は、愛憎なきを要す。
一、人は一能一芸なきものなし、その長所を採択するは人君の任なり。
一、既往の事を鑑みて、前途の事を計画せよ。
一、勇断なき人は、事を為すこと能はず。
一、 国政の成就は、衣食に窮する人なきにあり。

島津斉彬

黒田如水のことば

神の罰より主君の罰おそるべし、
主君の罰より臣下百姓の罰恐るべし。
そのゆえは、神の罰は祈りもまぬがるべし、主君の罰は詫び言して謝すべし。
ただ臣下百姓にうとまれては、必ず国家を失ふゆえ、祈りも詫び言しても、その罰はまぬがれがたし。
ゆえに神の罰主君の罰よりも、臣下万民の罰はもっともおそるべし。

黒田如水

秋山好古のことば

「日が暮れたら、天を見なさい。
絶えず動かない北極星は旅の道しるべになります。
世を渡る場合には、誠の心が道に迷わぬ為の磁石になります。
曲がった道に入ったと不安になった時は、自分の誠の心に問うてみなさい。
天が与えた良心はいつもあなたたちを導き守ってくれるでしょう。」

秋山好古

陸奥宗光のことば

「自由民権を主張せる今の浪人諸子よ、
諸子の進行中には多少の反動を招き、多少の障害を受くることあるべきも、最後の勝利は必ず此に在て彼に在らざるなり。
苟(いやしく)も進歩変革が社会の常道たる以上は、浪人は常に勝つ。
永久に勝つ。
浪人の勝たざる社会は滅亡化石の社会なり。
苟も天地の間一定の理法あるを信ぜんか、勝利は終に浪人に在らん。
何ぞ屑々然(せつせつぜん)として藩閥の残肴冷杯に首(こうべ)を低(た)れんや。」

陸奥宗光

ベートーヴェンのことば

「(貴族は)生まれがたまたまそうだったからにすぎない。
しかし、私が今あるのは、私自身の努力によるものである。
貴族は数限りなくいるし、これからも生まれるが、
ベートーヴェンは私一人しかいない」

ベートーヴェン

荀子のことば

「ゆえに蹞歩を積まずば、以って千里に至るなく、小流を積まずば、以て江海を成すことなし。
騏驥も一躍にして、十歩なること能わず、駑馬も十駕せば、またこれに及ぶ。
功は舎めざるに在り。」
(『荀子』)

(一歩一歩を歩んでいけば、千里の道も歩みきることができる。
小さな小川の流れが集まって、はじめて大きな海もできている。
とても早いスピードのサラブレッドも、一回はねただけで十歩分を移動することはできない。
一方、平凡な駄馬も十歩あるけば、名馬の一歩には及ぶし、超えることができる。
要するに、努力を継続してやめないところに、成果も成功もあるのだ。)