梶大介 『生ききらなければ真実はみえてこない―わがどん底歎異抄』よりメモ

梶大介 『生ききらなければ真実はみえてこない―わがどん底歎異抄』(樹心社)よりメモ


「いつの時代の何処であろうと、生かされた場を生ききっていかない限り、なんにも観えては来ない。
生き切ったところでしか真実は見えて来ないのである。」
(244頁)

「弥陀の本願は即解放されたいとする大衆の悲願であり、
一つのものであって別のものではない。
 弥陀は遠くに掲げて拝むものではない。
念仏とは大衆をその宿業の一切から解放して行こうとする行である。」
(200頁)


「真理とは簡単なのである。その真理を説く釈尊の説法は難しくないのである。真理を遠いものとし、釈尊の説法を難しいとするのは、人間が人間でなくなったからである。人間が真理に立とうとしなくなったからである。
即ち、
「生かされている」
という不思議の事実を否定しきっているからである。
「生かされている」
という不思議の事実を素直に受け取ったところに安心があり、念仏が発し、無碍の一道がある。
必要なものは必要なだけちゃんと備わってくる、困っても困らない生がそこにある。いや、すべてははじめからちゃんと用意されているのである。」
(258頁)