善導大師『阿弥陀如来を観想する教えの入口』(観念法門) 第四十四節

善導大師『阿弥陀如来を観想する教えの入口』(観念法門) 第四十四節



敬意をもってあらゆる浄土への往生を目指す方々に申し上げます。もしこれらの仏の言葉を聞いたならば、その声ごとに悲しんで涙を流し、はかりしれない長い時間をいくつも重ねるほど身を粉にして骨を砕いてこられた阿弥陀如来の御恩のいわれを感謝して、仏の御心にかなった称名念仏をすべきです。どうして髪の毛一筋ほどでも憚る心があるものでしょうか。また、さまざまな浄土への往生を目指す念仏者の方々に申し上げます。すべての罪深い凡夫ですら、罪が滅され、阿弥陀如来に摂取されて浄土に往生できると証明されています。ましてや、聖なる人々が往生したいと願いながらできないことがあるでしょうか。上記のことはすべて、「どのような人々が阿弥陀如来に摂取されて浄土に往生することができるのでしょうか」という先になされた質問に答えた者です。五つの念仏によって得られる縁(五種増上縁)の意味の解説がこれで終りました。

“A motto of happiness” (Ichirenin Shuzon, 19c Japanese Shin-Buddhist)

“A motto of happiness” (Ichirenin Shuzon, 19c Japanese Shin-Buddhist)


I am happy to be born as a human being.
I am happy to live in a peace world.
I am happy to have five senses.
I am happy to be well fed, well clothed and well housed.
I am happy to encounter the vow of Amida Buddha.
I am happy to know the easy practice of invocation Namu Amida Butsu.
I am happy to join the tradition of Shin Buddhism.
I am happy to meet good teachers and friends.
I am happy to receive Shinjin-Awareness.
I am happy to approach to the enlightenment.




(Japanese text)
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20120307/1331130299

"La moto de feliĉo" (Ichirenin Shuzon, 19c japana Shin-budaano)

"La moto de feliĉo" (Ichirenin Shuzon, 19c japana Shin-budaano)


Mi feliĉas naskiĝi kiel homo.
Mi feliĉas vivi en paca mondo.
Mi feliĉas havi kvin sensoj.
Mi feliĉas havi bonaj nutradoj, vestoj kaj bona hejmo.
Mi feliĉas renkonti la promeson de Amida Budho.
Mi feliĉas scii la facila praktiko de alvoko Namu Amida Butsu.
Mi feliĉas aliĝi al la tradicio de Shin-budhismo.
Mi feliĉas renkonti bonajn instruistoj kaj geamikoj.
Mi feliĉas ricevi Shinjin-Konscio.
Mi feliĉas alproksimigi al la iluminiĝon.


Angla lingva teksto.
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20120308/1331167219

山縣大弐 『柳子新論』

柳子新論 (岩波文庫)

柳子新論 (岩波文庫)


山縣大弐の『柳子新論』を昨日読み終わった。
かつて、部分的には読んだことがあったけれど、全文をきちっと読んだのははじめて。


山県大弐は、江戸時代中期、まだまだ幕府が盤石で全盛だった時代に、なんと倒幕を本気で考え、そのために長い年月をかけて多くの人に働きかけ、本気で倒幕と世直しを考えていた人物。
いわゆる「明和事件」の中心人物。


読んでいると、決して奇矯なことやおかしなことが書いてあるのではなく、むしろ非常に真摯で生真面目な人だったのだろうと感じる。


たぶん、内容を要約しても、『柳子新論』の文章全体から立ちのぼる印象や感慨は、全然伝わらないのかもしれない。
言っていること自体はわりと単純で、暴力による武家の支配ではなく、文化に基づく朝廷の世にすべきであり、礼儀や文化を振興し、税負担を軽くし、腐敗を正すべきだということをさまざまな言葉から論じている。
それらを、理想論やたわごとと一蹴する人も、当時も、そして今も多いかもしれない。


しかし、山縣大弐の文章全体から立ちのぼる正義感や正義への希求、幕藩体制の腐敗への批判精神は、その類まれなる真摯さと気魄によって、読む人の胸を打たずにはおれない。


「哀しいかな、衰世の政をなす者、文なく武なく、礼刑並び廃し、ただにその利を興すに心なきのみならず、またその害を除くに心なきなり。」


山縣大弐は、本当に当時の幕府の政治の腐敗や堕落を、心から悲しんでいたのだろう。
『柳子新論』は、ある意味、江戸期の政治思想史版の、異なることを歎くという意味での、歎異抄、歎異の一冊だったと言えるのかもしれない。


「それ聖人の道は、権衡なり、縄墨なり、規矩なり。これを懸けて以て軽重を正し、これを陳ねて以て曲直を正し、これを設けて以て方円を正す。何の利か興らざらん、何の害か除かざらん。」


具体的な方策というよりも、こうした精神のありかた、構えとして、現代人にも山縣大弐は大きなことを問いかけ、教えてくれているように、読みながら考えさせられた。


また、山縣大弐が、漢書の引用のようだけれど、昔の書物から引用している箇所で、


「一夫耕さざれば、則ち天下にその飢えを受くる者あらん。一婦織らざれば、則ち天下にその寒を受くる者あらん。」


という言葉は、なるほどなぁと思った。


今の世も、この言葉は非常に重く受け止められるべきかもしれない。


以前も、『柳子新論』の抜粋を読んで感銘を受けた箇所なのだけれど、以下の文章は、本当に、その精神において、とても大事なことを言っている箇所だと思う。


「政をなすの要は、務めてその利を興し、務めてその害を除くに過ぎざるなり。 利なるは、己を利するの謂いにあらず。 天下の人をして咸(みな)その徳を被り、その利に由らしめ、而して食足り財富み、憂患する所なく疾苦する所なく、中和の教え衆庶安んずべく、仁孝の俗比屋封ずべし。それこれを大利と謂うなり。 そのこれに反すれば、すなわち害なり。 害除かれずんば、すなわち利興らず。 故に古の善く国を治むる者は、務めて利を興し務めて害を除く。 而る後、民これに由る。 これを興すの道、如何。 曰く、礼楽なり、文物なり。 これを除くの道、如何。 曰く、政令なり、刑罰なり。 それこの二者は、惟(ただ)君みずから率い、惟君みずから戒め、而る後民これに従う。ただに君自ら率いるのみならず、実に天の職を奉ずるなり。」


山縣大弐のこれらの思想や精神、passionは、その時代においてはある意味、むなしく終わってしまい、一見無駄だったようにも見えたのかもしれない。
しかし、この山縣大弐の『柳子新論』が、幕府にとっては当然発禁の、持っているだけで危険な文書だったにもかかわらず、ひそかに筆者回覧され、幕末の長州の勤王僧・黙霖に読まれ、さらには黙霖を経由して吉田松陰に読まれて、吉田松陰が倒幕を志すきっかけになったということを考えれば、歴史において無駄なことなどなく、志の種は必ず芽吹く時があると言えるのかもしれない。


平成の今の、志を失いがちな世も、精神を正すために、閲覧参照すべき本のように思う。

ロックネル 『エムデンの戦い』

エムデンの戦い (新戦史シリーズ)

エムデンの戦い (新戦史シリーズ)


今日、ロックネル『エムデンの戦い』という本を読み終わった。
第一次大戦で活躍したドイツの軽巡洋艦・エムデン号とその乗組員たちのことを描いた作品。
さまざまな証言や回想録から、とてもわかりやすく、具体的にエムデン号の戦いとエムデン号が敗れたあとの乗組員たちの冒険が描いてあった。
しばしば、心震え、本当に心躍るような気持ちで読むことができる、とても面白い本だった。


エムデン号は、たった一隻で、ドイツが劣勢という圧倒的に不利なアジアの海の状況の中で、イギリス・フランス・ロシアなどの連合国の艦船を三十隻以上拿捕、あるいは撃沈し、インド洋や東南アジア近海の連合国に一大脅威と打撃を与え、しかも大胆不敵にもマラッカとペナンの二つの港湾にまで侵入し、石油タンカーを破壊したり、巡洋艦を撃沈するなど、まさに神出鬼没の活躍をした。


多くの商船を拿捕したが、エムデン号の艦長のカール・フォン・ミュラーは、常に国際法を遵守し、拿捕した商船の乗組員たちの身柄は常に丁重に保護し、必ず生きて帰れるようにはからった。
そのため、解放された拿捕船の乗組員たちから、エムデン号やミュラー艦長に万歳の声があがることも再三あったという。
戦いにおいても非常にフェアだったという。


エムデン号がたった一隻で敢然とインド洋での戦いに赴き、信じられない戦果を挙げたことは、本当に二十世紀初頭の奇跡というか、最後の英雄的な艦船の活躍だったような気もする。
そして、このような任務を敢然と行える艦長以下の人材のすごさを見ていると、人間は本当にすごいとあらためて思った。


また、この本は、活躍のみでなく、その裏側で、いかに艦長以下、補給の問題や日々の生活に頭を悩まし、苦労をしていたかもよく描かれていた。
エムデン号も、華々しい活躍は表面で、いつも補給の問題に頭を悩ませ、地道に石炭の補給や食料補給、掃除や洗濯などがけっこう大変だったらしい。
石炭の積み替えは特に重労働だったらしい。
そういう具体的な地道な努力や苦労があったうえでの、あの赫々たる武勲だったのだろう。


この本に描かれる、エムデン号のドイツ海軍軍人たち、および敵のイギリス海軍軍人たちは、非常にフェアで、互いに敬意を持ちあい、本当にすがすがしかった。
二次大戦の仁義なき戦いと違い、一次の頃は、わずかながらこういう事もあったんだなぁと感心させられた。
エムデン号は最後はイギリスに撃破され、艦長以下降伏するが、イギリスは非常に丁寧に礼節を尽くして迎え、コロンボに寄港した時も、恒例だと勝利を祝う万歳をあげるのを、エムデンに敬意を払い、万歳を自粛したという。


あと、この本ですごいと思ったのは、エムデン号の後日談。
エムデン号が敵艦船にやられて大破し降伏した時、乗組員の一部はディレクション島に上陸していた。
このミュッケ大尉以下の五十名は、エムデン号が敵艦船に急襲を受けて海戦の末、大破し降伏したのを知ると、自分たちだけは島にあったボロボロの小舟に乗って中立国だったオランダ領まで渡り、そこでドイツ領事の協力のもと新たなドイツ商船に乗り込んでイエメンに渡航、イエメンから沙漠を駱駝に載って渡り、ベドウィンの襲撃を受けながら北上し、ついにドイツまで帰国したというのだからすごい。


ミュラー艦長やミュッケ大尉を見ていると、人間は己の任務に忠実に、そして精魂を傾けて奮励努力すれば、普通では考えられないことをやり遂げることができるということを本当に思わされる。
そして、その過程において、正々堂々とフェアであれば、敵味方を問わず敬意を持たれ、はるか後世の人にまで語り継がれるようになるということも、よくわかる気がする。


とても良い一冊だった。