姜尚中ほか「デモクラシーの冒険」

デモクラシーの冒険 (集英社新書)

デモクラシーの冒険 (集英社新書)

十三年前に出た本だが、今も変わらぬ、というか、かえってひどくなっている諸課題が的確に分析されている。多くの人にオススメしたい一冊。それでもなお、デモクラシーを求める人には特に。

森鴎外 「雁」

雁 (新潮文庫)

雁 (新潮文庫)

心に残る作品だった。

この作品に出てくる人は、どれもそれほど悪い人ではなく、ごく普通の、わりと善人である。
しかし、なかなかうまくいかないのが、人生というものの哀れさである。

人生では、あの時タイミングがうまくあっていれば、と思うことが時折ある。
その時、タイミングがはずれたたまに、縁がなくなるということがある。
私にもしばしばそういうことがあった気がする。
この小説を読みながら、そんなことを思い出した。

逆に言えば、タイミングがうまくあった出会いや縁というのは、それだけ大切な、貴重なものなのかもしれない。

宮嶋望 「いらない人間なんていない」

いらない人間なんていない

いらない人間なんていない

良い本だった。
北海道の新得農場のチーズづくりの御話。
炭や微生物が人間の身体には大事なんだなぁと読みながら思った。
著者のメッセージは、どれも貴重なものだと思う。

小林多喜二 「党生活者」

小林多喜二『党生活者』を読んだ。

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

だいぶ前に、『蟹工船』は読んだことがあったけれど、『党生活者』はまだ読んだことがなかった。

感想はというと、なかなかこれは、単純には評価できない作品と思う。

明らかに小林多喜二自身をモデルにしてある主人公が、官憲の追及を逃れながら、工場の労働者に対してビラを作成して配ったり、革命を夢見ながらも過酷な時代の中で苦悩する様子が描かれていると一応は大雑把には言える。
子どもにキャラメルをあげたり、息子の心配をする母親とほんの一目だけ会いに行ったり、と、胸打たれる部分もある。

しかし、この作品の奇妙な、そして問題を感じずにはいられないところは、「笠原」という女性の描き方である。

笠原は、そこまで共産主義に理解や共鳴をしているわけではないが、一応は主人公たちの活動に好感を持ってくれている人物である。
主人公は官憲に追われていて家を着の身着のままで脱出した後、他に頼るあてがないので、笠原の家にかくまってもらうことになる。
その後、主人公は笠原に申しこみ、男女の仲として同棲することになる。

主人公は日中外に出るわけにはいかないので、ヒモのように暮らす。
笠原は会社につとめていたので働いて、主人公の生活も養ってあげる。
しかし、いつ逮捕されるかわからない不安や緊張や、仕事や生活のストレスから、笠原が「一度としてあなたは散歩にも連れて行ってくれないじゃないの!」という愚痴を言うと、主人公はそんなのは当たり前だろうとしか思わない。
笠原が「私は自分を犠牲にしてあなたに尽くしている!」ということを言うと、主人公は自分は生涯を犠牲にして革命に尽くしている、と思うだけである。
その上、「伊藤」という工場につとめながらオルグをしている賢い美しい女性の同志に、どうも微妙に主人公は心惹かれていく様子が描かれる。
その一方、笠原に対しては革命の難しい話をしても理解しないし興味もさほど持たないことに失望を深めていく。

そうこうしているうちに、おそらくは主人公の関連で思想的なことで疑われたためか、笠原が会社を首になって仕事を失う。
二人はすぐに生活に困り、やがて笠原はカフェの女給として、いわば今日でいうところの水商売みたいな感じの仕事を始める。
主人公は、日中はそのお店に内緒で行って残飯を食べさせてもらったりしているにもかかわらず、笠原が徐々に堕落していくのではないか、水商売の空気に染まっているのではないかと思ったりする。
仕事で疲れ果てた笠原がますます主人公の難しい話を聞かなくなったことに、主人公はますます失望を深めていく。
一方、バリバリと工場のオルグで活躍する優秀な美しい同志の伊藤に心惹かれていく…。
という様子を描いている。

これは、ある程度は、小林多喜二の実際の事実を反映しているのだろうか。
もし仮にそうだとすると、なんとも笠原に相当する女性が気の毒な気がする。
かくまってやり、養ってやり、そのうえそのために会社を首になり、水商売でくたくたになっているうえに、主人公からそのように思われるなら、なんともかわいそうである。
おそらくは、多喜二の恋人のタミさんがモデルになっていたのだろうか。
仮に多喜二自身の話ではないとしても、当時の活動家には、そういうタイプが多々いたのかもしれない。

だだ、逆に言えば、小林多喜二はこうしたことを書かなければ、ただただ立派な革命の英雄や聖人君子ということで通っていったのだろうけれど、自分の事実やありのままを正直に観察して描いたということは、すごいことなのかもしれない。
一緒に暮らしている人の一人を大切にしたり大事に感謝することができずに、何が世直しだとか思う私は、たぶんプチブルの典型なのかもしれない。
しかし、多喜二自身も、自分のそうした側面を、心のどこかで問題があると思っていた、あるいは大切な何かを見失っていると思っていたからこそ、あえて醜悪な部分まで赤裸々に描いたのかもしれない。

多喜二は決して、聖人ではなくて、罪深い人間の一人だったということだろうか。

もちろん、この小説の主人公は、そのまま多喜二というわけではなく、ある程度はモデルにしながらも、実際は全然違っていたのかもしれないが、あえてこうした物語を描いていた多喜二は、革命のためといって身近な人を犠牲にしていくような、そういうあり方に強い疑問や問題意識を感じ取っていた、ということは言えるのかもしれない。

もっとも、この『党生活者』は、前編が完成したあとに、多喜二が官憲に殺されてしまったので、とうとう後編が書かれず未完の作品である。

後半になれば、主人公や笠原や伊藤たちはどのような物語を紡いでいったかは、今となっては想像する他はない。
完成させて欲しかったものである。

映画「母 小林多喜二の母の物語」を見て

映画「母 小林多喜二の母の物語」を見た。
http://www.gendaipro.com/haha/


とても胸打たれる、良い映画だった。


小林多喜二の母・セキの役を寺島しのぶが演じていて、好演していた。
たぶん、寺島しのぶの最高傑作なのではなかろうか。


原作は三浦綾子だそうで、いつか読んでみたいと思った。


小林多喜二の母・セキは、多喜二の死後、ずいぶん経ってから、クリスチャンになったそうである。
映画の中で、牧師さんに、セキが、「あの子は天国に行ったのでしょうか?」と尋ねるシーンがあった。
すると、牧師さんが、「聖書の中には、小さな者にしたことはわたしにしたことである、とイエス様がおっしゃられる箇所があります。
多喜二さんは弱い人たちや貧しい人たちに随分尽くされました。
小さな者とは、弱い人々や貧しい人々のことです。
それらの人々にしてあげたことは、すべてイエス様にしてあげたことです。
ですので、多喜二さんは間違いなく天国におられると思います。」と答えていた。
そして、セキが、「だったらまたいつか会えるでしょうか」と尋ねると、「きっと会えますよ」と牧師さんが答えているシーンがあった。


世の中には、無神論者や共産主義者は天国に行けないとか地獄に落ちるとか、キリストを信じないというだけで天国に行けないというクリスチャンもしばしばいるようだけれど、私はこの牧師さんが言う通りだと思った。


それにしても、なんと残酷なひどい時代だったのだろうと、あらためて心痛まずにはおれなかった。
多喜二の死を悼んで寄せられたという魯迅の文章も作中に少し触れられていたが、それにも胸を打たれるものがあった。
いつか小樽に行って、小林セキのお墓にも参りたいものである。

911の時のホワイトハウスの話 メモ

911の特集番組を見た。
http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/3444/1453038/

911の時、ホワイトハウスもテロのターゲットという情報が伝わり、ホワイトハウスの人々は騒然となったそうである。

四機目のハイジャックされた飛行機は、乗客の人々の抵抗のため、途中で墜落して実際にホワイトハウスに到達することはなかった。

しかし、四機目のハイジャックされた飛行機がホワイトハウスに向かっているという情報に、政府高官も人々も本当にぎりぎりのところで命の危機を感じていたようである。

そんな混乱の中、当時冷静に行動した、執事長のウォルターズという人にスポットが当ててあった。

ウォルターズは、30年以上ホワイトハウスに勤務していた人物だそうだが、テロを知ると、ホワイトハウスに勤務している大勢の従業員たちに避難を指示し、しかもテロの飛行機が突入して来ると思われる方角の延長線上に逃げないように配慮したそうである。

また、自分はホワイトハウスに残って、事件を知らずに出勤してくる人たちにすぐに帰るように指示し続けていたそうである。

さらに、ずっと食事していないチェイニーやライスらの政府高官のため、すでに離れたホテルに避難していた料理長のシャイブに連絡し、料理をつくるように依頼した。

シャイブは、殺気立った警察たちに射殺される危険とテロに遇う危険を覚悟しながら、2キロの道を歩いてきて戻り、650人分の料理をつくり、政府高官やわずかにホワイトハウスに残っているメンバーや、消防隊員等々に配って回ったそうである。

また、その日、たまたま上下両院の議院を迎えての会食会が夕方から予定されており、机と椅子がホワイトハウス前の広場に設置されていた。

しかし、ウォルターズは、必ず大統領はホワイトハウスに戻ってくると考え、ほんの数人のわずかにホワイトハウスに残っている人々とともに、5時間かけて、ひとつあたり120キロぐらいある机を移動し、片付けて、いつでもヘリが着陸できる状態を整えたそうである。

ブッシュは、911当時フロリダにおり、すぐにホワイトハウスに帰ろうとしたが、チェイニーらの反対でいったんは別の場所に行った。

しかし、夕方頃に他の反対を押し切ってホワイトハウスに戻って来て、いったん付近の空軍基地に降り、そのあとヘリで、無事にホワイトハウス前の広場に到着し、国民に向けて演説したそうである。

その背後には、ウォルターズらの尽力があったことを、私はこの番組ではじめて知った。
もしウォルターズらが手際よくあらかじめ広場をかたづけていなければ、ヘリが着陸できなかったかもしれない。

危機に際して、持ち場を離れず、できうる限りの努力を尽す「普通の人々」こそが、本当の英雄なんだろうなぁと、番組を見ながら思った。

もちろん、ウォルターズやシャイブらとともに、WTCで救助活動にあたった消防士や、四機目の飛行機の中でテロリストと格闘し、飛行機がホワイトハウスに到達することを防いだ乗客の人々も、本当の英雄だったと思う。

にしても、あれから16年も経つのに、未だに世界が報復の連鎖が終わらない。
「普通の人々」が、普通に暮らせる世の中が、本当は一番なんだと思う。

ブッシュやチェイニーらは、率直に言えば、そうした世の中を取り戻すことに失敗したし、かえって事態を悪化させたようにも思う。

また、この番組でも言っていたけれど、ハイジャックされた四機目は、結局は乗客の抵抗で途中で墜落したため撃墜されることはなかったけれど、チェイニー副大統領はすでに撃墜命令を出していた。

民間人の乗客が乗っているというのに、政治というのは非情なものだとつくづく思うし、そのような撃墜命令が出されているにもかかわらず、ホワイトハウスや国を守るために自らの身を犠牲にしてテロリトストと闘い墜落して行った飛行機の乗客の人々は、なんとも哀れなものだと思う。

「普通の人々」が英雄的な勇気を発揮しても、たとえそれが美談に祭り上げられたとしても、しばしば報われないよなぁとは思う。

最近ブッシュを再評価する声があがっているそうだけれど、本当に再評価すべきは、こういう「普通の人々」だったんだろうなぁと思った。
政治は本当にどこまでそれらの人々の奉仕や思いに応えていたのか、その後の経緯を見るとかなり疑問に思わざるを得ない。