メモ

「ありのままの自分を、宇宙がよってたかって支えている」、ということは、べつに思想や思いこみや宗教のつくり話ということではなくて、明らかな事実なのだということを、今日は念仏している間ひしひし感じた。ただ、煩悩に眼が遮られて、そのことが日頃見えていなかっただけだ。



たとえば経済的な成功や結婚について、「失敗した」と思うことと「まだ成功していないだけ」と思うことは、心への影響が全然違ってくる。前者は落ち込むが、後者はかえって元気が出てくる。俺もまだ成功していないだけ。常にそう思うようにしよう。



「みんな宇宙を飾る華の一つ」

大須賀発蔵)


Ĉiuj estas unu el floroj ke ornamas la universon.


Everyone is the one of the flowers adorning the universe.
(Hatsuzo Osuga)




そういえば、以前床屋でぱらぱらと読んでいた雑誌に、「新聞やニュースはネガティブなことばかりで運が悪くなるので読むのはやめましょう」ということが書いてあった。若者向けの雑誌だったのだけど、要は自分だけ楽しく生きるために周囲への配慮は遮断しましょう、ということだろうか。

ケース・バイ・ケースで、あんまり時事にむやみにのめりこんだり怒ったりするのは良くないかもしれないが、世の中のことは遮断して自分だけうまく生きようとする心ばかりを勧めるならば、そういう風潮はどうなのかと思う。何事もバランスが大事だが、単なる利己主義ほど長い目で見た場合にかえって自分の首をしめることもないと思う。いつの世もそうかもしれないが、自分だけうまく生きようとする人間と、世の中の暗い雰囲気に落ち込んでいる人間と、その二種類がいまの世も多いのかもしれない。大切なことは自分も元気に、世のことにも関わって生きることだろう。



べつに念仏を数多く称えたからといって、多い方が往生を遂げられるとか修行になるとか、そういうことではない。けれども、たとえていえば、暖をとったり、日向ぼっこをするようなものではないかという気がする。長く暖をとり、日向ぼっこをすれば、おのずと心もくつろぎ、和やかになるものである。




「ただ、うらうらと本願をたのみて、南無阿弥陀仏と怠らず称すべきなり。」
法然上人、『拾遺古徳伝』第七巻 第六段)
 「うらうら」とは古語で「心がのどかである様子」のこと。本当に素晴らしい言葉だと思う。



地味な現実の積み重ねこそが、最終可能性を秘めている。



「御相伴にては今度の往生は覚束なし。我こそ本願の正客なりとおうけが出来てこそ往生すべし。」
三河のおその)



合点ゆかずば ゆくまで聞きやれ
聞かば合点のゆく御慈悲

合点したのは聞いたにあらず
 それは知りたの覚へたの

合点せいとは口ではいへど
 不思議不思議の外はない





久しぶりに四書の「大学」を読んた。
「毋自欺也」(自分の心をあざむくな)、
「一人定国」(一人立派な人材がいれば国を支え安定させることができる)、
「君子有虜矩之道」(立派な人物は自分のプリンシプルを持つ)、
「徳者本也、財者末也」(道徳こそ根本で物質的な富は枝葉)、
等の言葉が感銘深い。


「人の価値はその人の能力や社会的地位、経済的状態で決まるのではなく、その人の出遇った世界によって決まる」



歓喜銘」 (一蓮院秀存)

幸いに人界の生を得 
幸いに泰平の世に逢う
幸いに五根を具足す  
幸いに衣食住を得
幸いに誓いの強縁に遇う 
幸いに易行の法を得
幸いに真宗の流れを汲む  
幸いに真の知識に値(あ)ふ
幸いに大信心を得  
幸いに無上の果に近し



「田をつくるゆえに百姓なり。商いするゆえに商人なり。人道を守るゆえに人間なり。」(『秀存語録』)


「志を持ち続けるように」


遅々歩、遅々景。


この頃、老子華厳経に心ひかれるようになった。以前は、二つともあんまり興味が湧かなかったのだけれど、人間、年代によって興味が変わっていくということだろうか。あれやこれやと疲れた心を、老子華厳経はだいぶ救ってくれる気がする。
「俺の人生、これで良かったんだろうか?」と思った時に、老子華厳経や念仏は、「ま、いいっか〜」と思えるので、ありがたい。そのうち良いこともあるだろうという気になってくるから、不思議なものだ。
その理由は何かというと、たぶん、老子華厳経や念仏というのは、人間や社会の意識を飛び越えて、宇宙意識のようなものに連なっているからだと思う。宇宙の意識からすれば、人間や社会の意識や尺度は、あんまり大きなことではないのかもしれない。そういう、もう一つの目を持つのも大事だろう。
ただし、人間や社会の意識やモノサシというのは非常に強力なもので、絶え間なくこの意識の中に注ぎ込まれるものである。なので、それらを相対化し、解毒し、乗り越えるためには、念仏や華厳経老子をインストールしていくことが大事なのかもしれない。もちろん、人それぞれ有効なのがあろう。




「これでいいのじゃないか。いま、ここにこれ以外に何があろうというのか」(清水公照華厳経入門』34頁)



さまざまな花が集まってこの世界をつくっており、自分もまたその中の小さくささやかなものであろうと、大事な花の一つである、という華厳経のメッセージは、本当に胸を打つ、深く素晴らしいものだと思う。




幸福であることもたくさんあるのに、自分が不幸だと思っている愚かさ。不幸である理由を数えあれば、そりゃあいろいろ見つかるかもしれないが、幸福であることの理由を探せば、もっとたくさん見つかるだろう。当たり前のことが、ありがたいことだ。凡夫はどうもそのことを忘れていかん。俺は愚かだ。
ただ、この頃思うのは、愚かなところや素直な気持ちを、別に抑圧せず、それはそれで素直に表現してもいいのではないかということだ。難しいところだけど、大事なことは、気付いて、慚愧した上で、素直で取り繕わぬことだと思う。
「自分の人生間違っていたかなぁ」といった弱気な気持ちが、それはそれでなんらかの現れだと、老子華厳経の見地だと言えるのかもしれない。そんな弱い気持ちじゃだめだ、とは言わず、それはそれでそのままにし、そのうえでそれほどへこまず、さらっと流れに従っていく、ということなのだろう。


「一生骨を折って聴きたれど、どうなるものでも、こうなるものでもなかった。ただ、もう、如来樣が助けてくださるのであった。」(一蓮院秀存)


「私は、うろうろしています。」「そうか。そのうろうろしておるものを、御助け下さるるのじゃ。」(一蓮院秀存)


「強き碁うちは、二十手も三十手もさきが見える。弱き碁うちは、さきが見えぬ。われらは、弱き碁うちなり。阿弥陀樣は強き碁うちなり。」(一蓮院秀存)



Human is an Udunbara flower which blooms only once every three thousand years. (Meisuke Miura, 19c Japanese a leader of agrarian uprising.)


Homoj estas floro de Udunbara kiu floras nur unufoje en trimil jaroj.
(Meisuke Miura, 19c Japanio)


「人間は三千に一度咲く優曇華なり」
(三浦命助、江戸後期の東北地方の農民一揆の指導者)



清水公照さんの本に、「人生を三角形にたとえるならば、遠回りや道草は底辺を広くしていることだ」という意味のことが書いてあり、なるほど〜っと思った。なるほどなぁ〜。





When I am free from selfishness, I feel OK if I am beaten.
I feel OK whenever, because I am free from stinginess in all things.
When I am free from selfishness, I feel OK if I am a laughingstock.
I feel OK if I lay down my life, because I am free from selfishness.
(Meisuke Miura, 19c Japanese, a leader of agrarian uprising)


一、人に負ける欲を離れてよし
一、万物を惜しむ欲を離れてよし
一、人に笑われる欲を離れてよし
一、身を棄てるの所の欲を離れてよし
(三浦命助)