現代語私訳 善導大師『阿弥陀如来を観想する教えの入口』(観念法門) 第二十三節

現代語私訳 善導大師『阿弥陀如来を観想する教えの入口』(観念法門) 第二十三節



阿弥陀如来を見る、阿弥陀如来に出遇う縁」


第二十三節


また、阿弥陀如来の高度な集中力によって阿弥陀如来を見る・阿弥陀如来に出遇う縁(見仏三昧増上縁)とは、観無量寿経に以下のような意味のことが説かれているとおりです。
「マカダ国の国王の夫人の名前は韋提希(イダイケ)という名前でした。いつも宮殿の中にあって、いつも釈尊にお会いしたいと願い、はるかなグリドラクータ山(霊鷲山)に向かって、悲しみ涙を流して礼拝していました。
釈尊は、はるかなところから韋提希夫人の思いをお知りになって、霊鷲山から御姿を消して、王宮に姿を現しました。
韋提希夫人は、頭をあげると、そこに釈尊の御姿を見ました。釈尊は、純粋な金色の御身体をしておられて、宝石でできた蓮の花の上に坐っておられました。モッガラーナ(目連)尊者とアーナンダ(阿難)尊者が左右に側に立っておられ、帝釈天梵天が空の上にいて花びらを舞い散らせて供養していました。
韋提希夫人は、釈尊の御姿を見て、身を地面に投げ出して号泣し、釈尊に向かって哀れみを求めて懺悔しました。
「ただ願わくば、お釈迦様、私に浄土を教えて浄土を観させてください。」」と。


また、この観無量寿経が明かしていることは、ただ韋提希夫人だけが心が至ってみ仏の御姿を見たのではありません。未来の凡夫のためにこの教えは起こされているのです。ただ心にみ仏の御姿を見たいと願う者がいるならば、専ら韋提希夫人の例によって心を致してみ仏を思うならば、間違いなくみ仏の御姿を見ることができることは疑いありません。
これはつまり、阿弥陀如来の三つの念じ願う力がその人に加わるために、み仏の御姿を見ることができます。
三つの力とは、つまり、般舟三昧経に以下のような意味のことが説かれているとおりです。
「一つめは、大いなる誓願の力(大誓願力)によって思いを加えてくださるので、み仏の御姿を見ることができます。二つめは、高度な集中力(三昧定力)によって思いを加えてくださるので、み仏の御姿を見ることができます。三つめは、如来の功徳の力(本功徳力)によって思いを加えてくださるので、み仏の御姿を見ることができます。」と。
以下に記す阿弥陀如来を見る・阿弥陀如来に出遇う縁についても、この例に説かれたことと同じことが言えます。ですので、阿弥陀如来の高度な集中力によって阿弥陀如来を見る・阿弥陀如来に出遇う縁(見仏三昧増上縁)といいます。