雑感 ビン・ラディンの遺体写真の非公開ということについて

ビンラディン遺体写真を非公表
http://mainichi.jp/select/world/europe/news/20110505k0000e030004000c.html


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写真を非公表とする理由について「頭部を撃たれた人物の凄惨(せいさん)な写真が出回り、さらなる暴力の扇動やプロパガンダの道具に使われないことが重要だ」と説明した。
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それが理由だったのか。


公開されない理由をいくつか自分なりに推測していたのだが、ひょっとしたらビン・ラディンの死に顔や遺骸がある種のカリスマ性や美を帯びていたので公開しないのではないかと思っていた。

どうやら、そうではなかったらしい。


ビン・ラディンの死に顔や遺骸はどのような姿だったのだろう。


チェ・ゲバラの死に顔と遺骸は、本当に立派で、テロリストの末路ということで当初公開していたところ、やって来た人々が皆胸を打たれてゲバラを聖者か義人のように思ったという話を聞いたことがある。


ビン・ラディンは、ゲバラと異なり、そのようなことはないかもしれない。
ゲバラほどのちのちの人の共感を呼ぶこともなく、むしろ嫌悪の対象となるかもしれない。

ただ、人間の義というものは、立場により異なる。


パレスチナや、イスラムの中の虐げられた立場の人々は、ビン・ラディンのテロ行為を義挙とみなした人もいただろうし、ビン・ラディンを義士とみなした人もいるかもしれない。


こんなことを言えば、多くの人から反感を買うかもしれないし、アメリカ人に言ったら怒られるのだろうけれど、私はビン・ラディンの容貌は、なかなか端正な、憂いを帯びた、立派な風貌だと思っていた。


なんというか、当時の対抗する相手だったブッシュの愚かさのにじみでた浅はかな顔に比べれば、はるかにストイックで端正で、やや虚ろで遠くを見るような目も、狂信というよりは哀愁を帯びているようで、聖書やミルトンの詩に出てくる「堕天使」というのはこのような容貌だろうかと思った。


もちろん、911のテロ行為はひどいものだと思うし、犠牲者の方たちを思うと胸が詰まる。
911の被害者の方たちを思えば、ビン・ラディンへのアメリカ国民の憎悪や敵意や報復もわからなくはない。


ただ、これも言ってはならないのかもしれないが、具体的な犠牲者への悲しみを一切捨象して、ただ単にアメリカに一矢報いたということだけとりだせば、ビン・ラディンは世界の誰もなしえなかったことをなしたという気は、当時していた。


ナチスソビエトも、日本も、アメリカと敵対した国の、どこもアメリカ本土まで叩くことはできなかった。
せいぜい、日本がハワイを奇襲したことがあっただけである。


一方、アメリカは世界のあちこちで、いったいどれだけの爆弾の雨を降らせてきたことだろう。


そうしたことを考えれば、ビン・ラディンはどの大国もできなかったアメリカへの痛烈な一撃を、痛烈な一矢を、国家でもないのになしとげ報いたということは、良くも悪くも前代未聞の人物だったとは言えると思う。


吉良藩から見れば赤穂浪士はテロリストだったろうけれど、赤穂浪士を義士とみなした人々もいたように、ビン・ラディンアメリカから見れば許されざるテロリストだが、アメリカに怨恨を抱く人々から見れば一矢報いた義士ということになるのかもしれない。


もちろん、人間の正義というのはどれも相対的なもので、でたらめなものだ。


「実に、恨みによって恨みがこの世において静まることは決してない。
恨みなき(アヴェーラ、不瞋・慈悲)によって静まる。
これは永遠の真理である。」

釈尊、法句経(ダンマパダ))


本当は、どちらの恨みも、暴力も、やめないことには、人類が少しでもマシな世界をつくることはできないのだろう。


そして、私自身としては、オバマさんの風格はとても尊敬しているし、アメリカも基本的には好きな国だし、911の犠牲者は心から悼む気持ちがあるので、ビン・ラディンを誉めたりたたえるつもりはさらさらないし、むしろ人類にとって非常に困った人物で、ビン・ラディンがもたらした破壊や悲劇ははかりしれなかったとは思うが、

だとしても、その死に顔と亡骸の写真を見てみたかった気がする。


もしあるならば、アメリカには、やはり公開して欲しい。


それを通じて、何を受けとめるかは、やはり各人の自由に委ねるべきだし、もし死んだビン・ラディンの発するメッセージに正々堂々と応答することができなければ、アメリカの正義や大義というのは、やはりたいしたことがないということになるのではないか。
むしろ、死んだビン・ラディンの発するメッセージに堂々と応答して、テロの温床となるような貧困や不条理を除去していってこそ、本当の意味でビン・ラディンやテロに打ち克つということになるのではないか。


あと、できれば、ビン・ラディンが死ぬ直前、どのような言葉を発したのか、それも知りたい気がする。


もちろん、何も言葉を発する暇もなく死んだかもしれない。


しかし、ビン・ラディンならば、


「すべては終わった」


とか、


「主よ、主よ、どうして私をお見捨てになったのですか」


など言いそうな気もする。


もしそうならば、アメリカ人はなんと思うのだろう。


ビン・ラディンはいずれどのみち、なんらかの手段によって裁きを受けるべきだったかもしれない。
しかし、アメリカやイスラエルは、長年のパレスチナ政策について、そしてその他のもろもろの事柄について、自ら慚愧しないのであれば、本当に裁きを受けなくて済む存在なのだろうか?


ビン・ラディンアメリカを見ていると、「真理とは何か」と疑問を言いたくなる気がしてならない。