証言記録 市民たちの戦争 “引き揚げ”の嵐の中で 〜京城帝国大学 医学生の戦争〜

(2010年 9月記す)

「[証言記録 市民たちの戦争]“引き揚げ”の嵐の中で 〜京城帝国大学 医学生の戦争〜」という番組を見た。

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001220035_00000

今のソウル、かつての京城にあった、京城帝国大学の医学部の学生たちが、戦中、敗戦後の混乱で目撃したことをインタビューを交えて特集してあった。

京城帝大の医学部の赤煉瓦の建物は、今もソウルにのこっているというのも、番組で知ってちょっと驚いたが、いろいろ興味深いエピソードが番組ではあった。

京城帝大は、戦時中も比較的自由で、戦闘帽やゲートルを身に着けず、普通の格好で学生たちは通うことができたらしい。

非常に広大な敷地で、敷地の中には李王朝の頃の庭園もあったそうで、往診には飛行機を使うこともあったそうだ。

教授は日本人と朝鮮人の学生のどちらにも公平に接していたらしく、日本人学生と朝鮮人学生で親しく交流することもあったらしい。

文系の学生は学徒動員で特攻隊で死ぬことも多くなっていったが、医学部の学生は徴兵されずに残ったそうだ。

敗戦を機に、満州からソビエト軍の攻撃を逃れてきた多くの人たちがソウルに流入してきたらしく、京城帝大の医学部生は、他に行う人がいないので懸命に治療や診療に努めたらしい。

一緒に日本に引き上げたあとも、ソビエト兵に暴行されて妊娠していた女性たちの中絶手術に努めたそうだ。
当時は堕胎罪という法律があり、五年以上の懲役の可能性もあったそうだが、戦争の被害者である女性たちを助けねばと中絶手術を行い続けたそうである。

なんとも悲惨な、胸のつまる話だった。
敗戦時にソビエト兵に暴行されて、帰国後中絶した方たちが多数いたという話は聞いたことがあったが、あらためてひどい話と思った。
敗戦というのは、悲惨な、哀れなものだと、あらためて思った。

何がこのような悲惨な事態を招いたのか。
後世の者はきちんとそのことを考え、二度と日本が敗戦のこのような悲惨な事態にならないように、責任と智力を尽くさなくてはならないのかもしれない。

インタビューの中で、敗戦を機にソウルの街の雰囲気ががらっと変わり、朝鮮の人たちがみんな万歳と電車の上にまで登って叫び続けていたという証言も、印象深かった。
それほど、朝鮮の人たちは日本の支配から逃れたいとずっと思っていたのだろうか。
そう思わせるような、日本の統治の仕方だったのだろう。

他国に対して、日本が敗れた時にそのように喜ばれるような、それまではそれほどに逃れたいと思われるような、そういう関わり方は二度とすべきではないのかもしれない。

いろいろ考えさせられる番組だった。

ただ、京城帝大というのは、なんというか、あの時代においてはきっと不思議な空間で、優秀な朝鮮人の学生も育てていたようだし、学問やある種の平等や公正さがあった、稀有な空間だったのかもしれない。

もっと日本がうまくやっていれば、もっとどうにかなったのではないかと思われることもあるけれど、今となっては敗戦の事実から、いかにきちんと教訓を汲み取るしかないのだろう。

いつか、京城帝大の建物も見てみたいような気がした。