NNNドキュメント 「カツドウカ、社会へ 湯浅誠の若者養成塾」

三か月ほど前、NNNドキュメントで「カツドウカ、社会へ 湯浅誠の若者養成塾」という番組があっていた。

http://www.ntv.co.jp/document/back/201009.html

湯浅誠さんが、この一年半ぐらいの間、次の活動家を育てるために、「活動家養成・一丁あがり講座」という塾をひらいていたそうで、その様子が特集されていた。

湯浅さんは自身の行動でも多忙を極めるだろうに、ちゃんとこうやって後進も育てていたなんて本当にすごいなぁとあらためて思う。

活動家とは、決してヘルメットをかぶってゲバ棒を振り回すものではなく、社会を良くするために”場”をつくっていく人。

日頃、なかなか話せないことを、気楽にみんなで話し合う”場”をつくる人。

そんな湯浅さんの言葉には、とても感じ入るものがあった。

塾に集まっている方たちも、二十代後半や三十代の、だいたい私と同じ世代の、いわゆる”ロスジェネ”世代で、派遣切りにあった人や、大学院を出たものの職のない高学歴ワーキングプアの人や、正社員だけれど生きづらさを感じている人など、それぞれの背景があるようだった。

そうした人たちが、自らの体験や思いを語り合い、横のつながりを積極的につくっている姿に、たいしたものだなぁと感じさせられた。

俺も東京にいたら、イベントに行ってみたかったような気がする。

湯浅さんには、決してイデオロギーではない、人間味と行動力を感じる。
平民社の頃の面影をなんとなく、塾の様子から感じるような気がした。

ロスジェネ世代のひとりの私も、なんとなく孤立感や人生しくじった思いや挫折感を感じることがあるけれど、それでくさらずに、こうやってなんとか良い方向に自分や社会を変えていこうとがんばっている人もいることを思って、私も私なりにがんばらんとなぁ。


(追記)

大事なことは、イデオロギーを脇に置いて、とりあえず気楽に穏健に同じ場で話すことかもしれない。

ばりばりの活動家とまではいかなくても、それぞれの人がそれぞれの立場で、広い意味での実践家であることが、社会にとっては大事なことだと思う。

ロスジェネの問題のひとつは、経済的制度的疎外と同時に、あまりにも代替可能な存在、ネジみたいな存在になってしまっていて、天職や代替不能な存在としての位置を見出しにくいということにもある。

代替不能な自己の発見という意味においても、対話が大事であろう。
アレントの「人間の条件」の”複数性”の話もだが、たぶん本当は自分一人の殻に閉じこもるのでなく、多様な人々の中でともに言語を使って話し合う中で、自らの個性の発見や確立もはじめてありえる。
しかし、現代はなかなかその「場」を持つことが難しい気がする
ネットは、「場」のきっかけとしては、とても大きな可能性があるのと同時に、自分と考えの違う人間には聞く耳を持たず同じ図式の人間とだけ群れるツールにもなりうる点で両刃の刃である。

その点で、湯浅さんの試みは、非常に貴重なものだと思う。

イデオロギー以前に、生存権や幸福追求権をしっかり保障し充実させる社会であって欲しいと思う。
逃避的な快楽ではなくて、意味のある生というのは時代や社会の課題に取り組む中にあるということも、今の時代はもっと考えられて良いことのように思う。