誰でも草莽

 「草莽」とは、なにも特別なことではないと思う。
 自分が草莽と思えば、誰でも草莽になる。そんなものだと思う。
 もちろん、自分では草莽ということばを意識していなくても、実際には草莽の名がふさわしい人もいっぱいいると思う。

 ある人が、こんなことを言っていた。
 人間とは、二つのことと闘うものであり、その闘いを生き抜くものだと。
 ひとつは、社会の不合理と。
 ふたつは、自分の中の無明と。

 この二つとの闘いを自分の人生で闘い抜いた人が、本当の人間であり、「草莽」ということなんじゃないかと私は思う。

 あるいは、そんなに大げさに構えなくてもいいのかもしれない。

 何も、特別な存在になったり、立身出世しなくてもいい。
 自分がいまいる場所で、自分の身の周りのことから、ちょっとだけ世のため人のためにできることからやっていく人。
 やろうとする人。
 それが「草莽」なのではなかろうか。

 草の葉っぱは、実は木や森や世界とつながっているように、人間もまた、自分という一つの存在を本当に生かすのは、自分のかけがえのない個性を大切にしつつ、周りのすべての人やいのちのためを思って生きることにあるのではないか。
 現代人に一番大事なのは、そんな「草莽」「草の葉」の精神なんじゃないかと、ふと思って見たりする。