政治的麻痺の国

去年の今頃、七年ぶりぐらいに、ジョン・ダンの「日本のたどる政治的麻痺への道  置き去りにされた民主的希望」という文章を読んだ。
(以下はその時の感想)

これは、2002年の6月、「思想」という雑誌の938号に載ったもので、丸山真男について論じながら、ジョン・ダンが日本の置かれている状況を十年にわたる「政治的麻痺」と形容して考察した講演録である。
2001年の4月に、その講演は行われたものだったらしい。

ひさしぶりに読んで、あらためてとても面白かった。

ジョン・ダンは、日本のことを十年にわたる政治的麻痺、とその時点で呼んでいた。

「政治的麻痺」とは言い得て妙である。
日本の政治的麻痺は、もはや十年を越えて、かれこれ二十年にわたると言った方が適切なのかもしれない。

ダンが分析した時のあとに、小泉改革、およびその後の政権交代と大きなうねりはあった。
しかし、どちらも事実上、今のところ、「政治的麻痺」としか言えないしろものだと私には感じられる。

小泉改革が、結局のところ、日本の多くの国民にとって、閉塞感や窮乏を増すものであると感じられ、さして良いものでもなかったと感じられた結果が、昨年に行われた選挙の結果だったのだろう。

一方、民主党への政権交代は、長年の自民党による政治的麻痺からの脱却の起死回生の策として、多くの国民が望んだものだったのだろうけれど、まだ長い目が必要かもしれないが、今のところ多くの領域において、政治的麻痺としか形容できない状況を見せている。

これから先、民主党政権が続くとしても、あるいは民主党が退陣して再び自民党が政権に返り咲くとしても、どちらにしろこの政治的麻痺が終わってくれなければ困るわけで、どちらであっても政治的麻痺からぬけだしてくれれば良いというのが、国民の正直な気持ちだろう。

そのためには、国民には長い目が必要なのか、あるいはシビアな目が必要なのかは論者によって意見の分かれるところだろうけれど、ともかく厄介なのは、この「政治的麻痺」である。
たしかに、我々は、「困惑の共同体」としての共同体で、この二十年あったのかもしれない。

代議制民主主義でありながら、(そうであればこそだろうか)、かくも長く日本が政治的麻痺に陥っているのは、いったいなぜなのだろう。

ダンは、この政治的麻痺において、誰が責められるべきなのか?という問いを、慎重に言葉を選んで安易に答えを出さないようにしながら、提起しているけれど、今もって、日本はこの講演がなされてから八年もたつのに、きちんとした回答は出ていないように思う。

「民主主義を通じての国民共同の失敗」としてのこの十年、二十年を、どう認識し、誰がこの政治的麻痺の責めを負うべきなのか。

この問いが、きちんと答えられない限り、仮に小手先で体制が変わっても、日本の麻痺は終わらないのかもしれない。

草莽とは、いつの世も、政治的麻痺の状態にある社会や国家に対し、そこからの神経の回復をめざす存在であるのかもしれない。

大事なことは、政党や政治家や官僚に人任せにせず、マスコミを鵜呑みにせず、安易に任せればろくなことにはならないと自覚し、庶民の一人一人が草莽崛起の心を持って、時勢に目を開いて自らの責任と考えと行動を探し育むことなのだと思う。

そこにしか、もはや本当の政治的麻痺からの脱却の道はないのかもしれない。
そのことをはっきり認識させたとしたら、この二十年の困惑と迷走も、勉強材料としては良いものだったということになろうか。
あるいは、未だ目覚めず、政党や官僚やマスコミや米軍に人任せにしていれば、まだまだこのあまりにも長い政治的麻痺はずっと続いていくのかもしれない。


と、ここまでが去年の今頃に書いた文章。

今、思うのは、日本の政治的麻痺は本当に深刻だということである。
早く菅政権の退陣を願った方がいいのか。
あるいは、あまりにも次々に短期政権に終わることこそ政治的麻痺の原因とみて、ここは長い目で見た方が良いのか。
なんとも、どちらにしろ、国民にとっては難しいところだ。


おそらく日本の政治的麻痺の原因は、与党にだけあるわけでもなく、国民にだけあるわけでもなく、さまざまな要因の混ざったものであり、速断を避けながら、注意深くひとつひとつその原因を除去していくしかないのかもしれない。
おそらくは、世論の支持を受けた強力なリーダーシップを発揮できる首相によってしか、今日の日本において政治的麻痺の原因の除去のための改革もなしえないとすれば、与野党ともにそうした人材の養成と、もし誰かが党首や首相になれば、その人を支えて少しでもそうしたリーダーシップを可能にするようなバックアップが重要になってくるのかもしれない。
国民も、安易なシニシズムではなく、場合によっては、与野党を飛び越えて、首相を支えるような、そうした世論形成もリーダーシップ実現のためには大事なのかもしれない。
ただ、それに耐えるだけの首相の器の人物が首相になってくれるのか、またそうした状況の実現を目指し行えるだけの力量が当人にあるのか、そうしたことは、なかなか難しい問題である。