皇帝ペンギンとクロポトキン

もうだいぶ前だが、テレビであっていたのを録画しておいた映画「皇帝ペンギン」を見た。
とても面白かった。
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD6979/index.html


 南極の過酷な寒さの中で、身を寄せ合って逞しく生きる皇帝ペンギンたちのドキュメント映画で、とても胸を打たれた。


 中でも泣かせるのは、生まれた卵を雌から雄に随分苦労しながらバトンタッチし、雄がずっと暖めている間、雌が遠くの海まで食べ物を取りに行く姿。
 待っている間、雄は身を寄せ合って猛吹雪の中で卵を必死に守り、生まれてきた雛をあたため守る。
 なかなか雌が帰ってこない中、雄は胃袋の中にのこしておいた最後の食べ物を、生まれたばかりの雛に与え、飢え死に寸前までこらえる。


 雌は、壮大な旅から無事に帰り、生まれてきた雛と久しぶりに会う雄と感無量の再会を果たし、食事を雛に与え、雄は雌に雛をバトンタッチすると、自分はふらふらの体で遠くの海に自分の分の食事を探しに再び旅に出る。

 
卵は、あたためていないと、ほんの数十秒で凍って死んでしまうそうで、中にはそんな卵もあるようだったし、せっかく生まれた雛も猛吹雪の中で息絶えるものも時々いるようだ。
 過酷な自然の中で、そんな中で、必死に卵を協力して守り、雛を育てるペンギンの夫婦の姿は感動的だった。


 また、夫婦だけでなく、ペンギンは群れでいるからこそ、あの寒い中でなんとか生きのびることができるようで、大勢集まってちょっとずつ外側から内側に場所を交替しているそうで、群れの内側はかなり暖かいそうである。
 また、天敵から身を守るためにも、集団でいる方が良いみたいであった。

 
ペンギンは、雄の数が雌より少ないらしく、雌同士で雄をめぐって求愛の時期になると戦うこともあるみたいだが、いたってその戦いものどかで、ペンギンの愛らしい羽で軽く叩き合ったり、胸で押し合ったりするだけで、あの鋭いくちばしでは決して突っつきあわないようである。

 
ペンギンの様子を見ていて、人間はどうだろうと考えさせられた。

 
かつて、クロポトキンは、自然界の動物の相互扶助の様子を観察して、人間も本当は優勝劣敗の生存競争ではなく相互扶助こそが真理であり、今までの歴史も相互扶助があればこそ人類は生きのびてきたのであり、強者が弱者を虐げるのは誤りで相互扶助の社会こそ正しいと主張した。

 
ペンギンを見る限り、群れは助け合って暖めあっているようで、決して力の強い者だけが安全で暖かい場所にいて弱い者だけが酷使されたり寒い場所に割り振られたりはしていないようだったから、自然界の有様に照らして考えれば、クロポトキンが言っていることも正しそうではある。
 戦いに関しても、くちばしでお互いを殺しあわないペンギンは、大量殺戮兵器を使いあう人間よりはよほど倫理的に高いものがあると言えるのかもしれない。

 
ペンギンに比べて、人間はいったい何なのだろう。
 そうこう考えると、ペンギンこそ「皇帝」の称号がふさわしく、どの一匹一匹も気高い皇帝の位にふさわしいのに対し、人間は今もってあんまりたいした位・段階ではない、愚かな生き物なのかもしれない。

 
そういえば、以前、「WATARIDORI」という、渡り鳥のドキュメントの映画を見たときも感動した。
 渡り鳥から見た世界には、なんらの国境も無く、自由にいろんな場所をひとっ飛びして行き来していた。
 人間も、せっかく飛行機や宇宙ロケットを開発し、いちおう渡り鳥と同じように飛行できるようになり、自由にどこでも行くことも、空からの視点も獲得したはずなのに、今もって肉眼では決して確認できない国境をつくってそれでせめぎ争っている。
 渡り鳥から見たときに、国境という目に見えないもののために争っている人間は、どう見えることだろう。
 そうこう考えると、人間というのは、いたって不自由な生き物で、鳥の自由さにもともすれば劣る部分があるのかもしれない。


 ジャータカや仏典を読んでいると、とてもたくさんの動物の生態や姿が描かれている。
 古代人というのは、案外と動植物の姿から、多くのものを学び、生き方を賢くしていたのかもしれない。
 自然界の動物に見られる相互扶助や必死の子育てや、国境のない自由な視点など、今もって人間が学ぶべきことは、自然界には多々ありそうである。
 クロポトキンの提起は、その後の人類にあまり真剣には配慮されていないようで、相も変わらぬ優勝劣敗や競争が幅をきかせているけれども、時折はペンギンの生態や、あるいは自然界をよく観察したクロポトキンのような先達の言葉に耳を傾けてみることも大事かもしれない。