アインデンティティよりインテグリティ

最近、某ネット上の掲示板で、日本人のアイデンティティキリスト教は整合的かどうか、だとか、日本人のアイデンティティとは何か、ということを議論している方々がいた。

ときどき思うのだけれど、「アイデンティティ」って、あんまりこだわる必要がないんじゃないかと思う。
くだらない話なんじゃないかと思う。

たとえば、日本のアイデンティティキリスト教ではなくて仏教や儒教だと主張した場合、その仏教や儒教も最初は外来のものだったわけで、単に渡来してきた時間差に過ぎないことになる。

神道アイデンティティだとした場合、もしそのアイデンティティ物部氏のように固執し、仏教や、のちの西洋文明を排除していたら、日本は未だに未開の国だったことだろう。

アイデンティティというものは、あんまり探究すると閉鎖的になりがちな気がするし、そんなものにこだわるのはしょせんは脆弱な自我の持ち主なんじゃないかと思う。

どれほどいろんなものを摂取したり、いろんな新しいものに触れても、自分は自分であり、それらの摂取や取捨選択の仕方に自分の判断や個性があると思えば、べつにアイデンティティ固執する必要はないんじゃないかと思う。

私が思うに、アイデンティティと似た言葉で、もっと大切なことは、インテグリティじゃないかと思う。
いろんな要素を、自分なりに統合して、整序し、意味づけ、整理できているというのが、インテグリティってことだろう。
筋を通すってことでもある。

昨今、グローバル化が進展し、その反動で、妙に日本のアイデンティティを模索する動きもしばしばあるようだけれど、大切なのはインテグリティだし、国際的であってはじめて自分のポジションもわかるんじゃないかと思える。