今日は、聖書の研究会に行ってきた。
H先生の講話で、エフェソ書の四章から五章の冒頭のところまでで、とても感銘深かった。
エクレシアは一つだが、一人一人違う賜物が与えられている。
そしてその賜物は平等であること。
エクレシアは希望に向かって招かれている。
エクレシアには希望がある。
神様の愛があるから、悪い方向にいくわけがない、と。
希望の根拠は神の愛である、と。
また、賜物と恵みは別のもので、恵みは祝福であり、イエス・キリストその方であり、恵みは一つ。
しかし、一人一人には個性や資質や能力や環境に合わせて、それぞれに素晴らしいものが与えられる、これが賜物ということ。
与えられるのは恵みで、同じで、すべての人に与えられるが、それぞれの「はかり」で、賜物という形をとった恵みが与えられる。
エクレシアは一体だが、一人一人はかりにしたがって、恵みの現れ方が違う。
ということで、なるほどーっと思った。
また、エクレシアは成長するものであり、エクレシアの成長の栄養素は愛であること。
四章末尾の「正しく清い生活」とは、愛によって歩むことであり、特に怒ることと盗むことと言葉が戒められている。
怒りを持ち続けるのは悪魔にすきを与えること。
盗みとは、意図せざる盗み、つまり正当な対価を払わずに受けたりすることも含む。
言葉というのは、態度も言葉の一つで全体が言葉だということ。
言葉は、聞く人に恵みが与えられるように語るべきであること。
そして、五章一節の「神に倣う」ということは、本当にそれが可能なのか、重い課題ではあるけれど、それほどに神が私たちを信頼しているということであり、キリストによって神に愛されている者であるからこそ、神に倣うべきであるということがこの箇所で勧められている、いかに愛されているかの証拠の文である、といったことなどなど。
とてもためになり、この箇所のエフェソ書の内容が、はじめて本当に深くわかったような気がした。
あと、Kさんが、罪とは心に愛がないこと、真の困窮とは魂の困窮のこと、などの御話も感銘深かった。
先週、一緒にお昼の食事をしている時に、H先生にうちの妹の話になって今度画集を持ってくるということになってたので、うちの妹の画集を今日持ってきたら、とても誉めて喜んでくださり、ありがたかった。
ちょうど、たまたま偶然、いつも三つほど讃美歌を歌うのだけれど、その三番目にうたった今日の讃美歌が、讃美歌21の520番の「真実に清く生きたい」という歌で、「心をあげよ」という歌詞だった。
本当に不思議な偶然の一致で、深い神の御はからいを感じた。
去年の秋にY先生が来た時にアメイジンググレイスを歌った時も神の深いはからいを感じたが、やはり偶然ということはなくて、すべてはかりしれない神の深慮の中にあるのかもなぁ。
良い一日だった。