雑感 アナウィム

アナウィム、というヘブライ語の言葉があるそうである。
「貧しい人々」などと訳されるが、圧迫されている人、誰も助けのない人、なによりも「見捨てられた人」、「見放された人」といった意味があるそうである。


こんなことを言うと、贅沢でわがままだと言われるかもしれないが、今年に入ってから、うまく自分を表現する言葉が見当たらなかったが、始終感じていたことは、自分は「アナウィム」だという感覚だった。


もちろん、このようなことを言うと、わがままだとか贅沢だとか言われるかもしれない。
住む家も三度の食事もあるので、これでアナウィムなどとは、本当のアナウィムの人々、たとえばシリアの難民からすれば、贅沢過ぎる世迷言というのは全くそのとおりである。


しかし、いかに自分の心をごまかそうと、実感していることはごまかせない。
今年に入ってから、いろんなことが積み重なって、自分はアナウィムだとずっと感じてきた。
その間中、私の心は始終、血を流してきた。


はじめは、表現する言葉も見つからず、なんと表現していいのかわからなかったが、アナウィムという言葉を知って、やっとはじめて腑に落ちた。
自分はアナウィムなのだと思う。


人はアナウィムにならなければ、神に出会えないのかもしれない。
アナウィムになって、呻きながら、長く離れていたキリストにやっと向直った気がする。


しかし、ではそれが神の愛の働きなのかというと、まだよく私には確信を持てない。


ただひとつ確かに感じることは、自分はアナウィムであり、アナウィムだからこそ、キリストに立ち帰った、立ち帰りつつある、ということだけである。


それにしても、日本は、大なり小なり、自らをその言葉は使わなくても、アナウィムである人々がたくさんいるのではないだろうか。
無縁社会や無縁死や棄民や引きこもりなどというのも、言い換えればアナウィムということだろう。


「貧しい人々は幸いである」


というキリストの言葉は、本当は、


「祝福されている、アナウィムは」


という意味のことらしい。
原語はそんな感じだったのだろう。


アナウィムの人々にも、神の祝福と神の愛を届けようとしたのが、イエス・キリストの御生涯だったのだろう。


その働きはおぼろげながら、自分にも届いている。