ひさびさにマルコによる福音書を聞いて

昨日は首肩が痛くて何もできないので、とてつもなく久しぶりに、ふと「マルコによる福音書」をぜんぶ聞きたくなり、youtubeの朗読で聞いてみた。


通読したのはいったいどれぐらい昔か。
たぶん、二十年ぐらい前になるだろうから、通して味わうのはそれぶりぐらいだった。
あらためて、とても素晴らしかった。


特に、今回あらためて胸を打たれたのは、14章 36節のゲッセマネの祈りの中のこの言葉だった。


「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」


たぶん、この箇所は、似た言葉があるマタイ伝の箇所よりも、マルコ伝の方が文章も鮮明だし、美しいと思う。


「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」


これは、洋の東西や宗教を問わず、祈りの真髄だと思う。


浄土真宗の念仏も、要するように、こういうことだと思う。
マルコ伝は、十二章等の他の箇所でもそうだが、非常にシンプルに簡潔に明晰に真理が書かれていて感心するが、このゲッセマネの祈りも、世界の宗教の古典の中で最も簡潔に信仰とは何かを現わしたすばらしいエッセンスだと思う。


また、今回聞いていて、あらためて、ペテロの二回鶏が鳴いて慟哭するシーンは、涙なくしては聞けないシーンだと思った。
あの箇所は、凡夫の悲しさを最もよくあらわしている物語だと思う。


あと、マルコ伝を聞いていると、他の福音書には出てこない、なんとも奇異な箇所が、ゲッセマネでのイエス逮捕の箇所にあるのに、今回あらためて気づいてなんとも奇異な感覚に打たれた。


「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」


という箇所である。
この若者は何者?と思い、ネットで検索してみたら、マルコ自身だという説があるそうだ。
だとすれば、納得がいく気がする。


昔読んだ時は、マタイやルカの方が、いろんな記述も詳しい気がしたし、イエスの言葉も数多く記されていて、それに比べるとマルコによる福音書はなんだか物足りない気がしたのだが、この頃は、一番胸を打たれる気がする。
それはひょっとしたら、マルコ自身が他ならぬこの亜麻布の若者で、これらを実際に目撃して記したからなのかもしれない。
あまり余計なことは書かず、シンプルに筆を進めていくマルコの叙述の仕方は、ある意味最も好ましいもののように、昔に比べて年をとってくると感じられるようになった。


また、マルコによる福音書のラストのところで、イエスの十字架の死を目撃したローマ軍の百人隊長が、


「本当に、この人は神の子だった」


というシーンは、朗読を聞きながら思わず涙。
これも、本当に胸を打たれる箇所と思う。


実は、私は、以前、非常に奇妙な夢のようなものを見たことがあって、この百人隊長の知り合いのローマ人のある人の生涯がとても生き生きと見えたことがあった。
その人はティベリウス帝と知り合いだった。
ティベリウス帝が、非常に冷静で私心なく国家の運営に心を砕きながら、片時も心が休まることがなく、暗くて陰鬱で疑心暗鬼のかたまりであったことと、何も持たないが、明るくて幸せそうなペテロらの初期のキリスト教の教会の対照に、非常にその人は強い印象を受けていた。


今思い出せば、私も昔はいろいろと不思議な体験があったものである。


それにしても、あれはもう九年ぐらい前になるが、ヴァチカンの地下にあるペテロのお墓の前に行ったことをふと思い出す。


のちに、イエスのこの時の十字架上の死から、二十〜三十年後ぐらいの時に、ローマで弾圧があることを察知したペテロは、いったんはローマから逃れようとして、イエスがローマに向かう姿の幻(?)を見て、思い直して、再びローマに戻り、殉教したのだという。


かつては二回鶏が鳴いた時に慟哭したペテロが、それほどの強さを身につけたのは、やっぱり信仰というものの力だったのかもしれない。


最近、イクイアーノやジョン・ニュートンの自伝を読んでいて、あらためて信仰というものの力や、聖書の力とうものを感じさせられたので、ひさしぶりに読み直してみたいと思っていたのだが、そういった意味で昨日は良いきっかけになって良かった。


結局、イエスのすべての根本にあったのは、マルコの十二章で言われる通り、


「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」
「隣人を自分のように愛しなさい。」


という二つのことで、これを本当に実行したところが、イエスの偉大さだったのだと思う。


他の宗教も、もし本当に真の宗教であれば、この二つが真実にできているかどうかが決めてになるのだろう。


それにしても、今日の浄土真宗の念仏者で、本当に阿弥陀如来を心を尽くし精神を尽くし思いを尽くして愛し、御同朋・御同行を自分のように愛している人が、どれだけいるのだろう。
親鸞聖人や蓮如上人はそのような人だったから迫力もあったのだろうけれど、形骸のみが残って精神が伝わっていないとしたら、なんとも困ったことなのかもしれない。


もちろん、キリスト教もそれは同じことで、そもそも上記の二つのエッセンスが本当に生きていれば、長い歴史の上で黒人奴隷制等々の問題はそもそも生じもしなかったはずである。


ことほど左様に、イエスの精神とは、簡単に忘れ去られ、蒸発してしまうものなのかもしれない。
そうであればこそ、奇跡のようなもので、ローマの百人隊長をはじめとし、多くの人の胸を打ったのだろう。


そういえば、全然気づかずに、たまたまそんな風に昨日はマルコ伝を聞いて、こんなことを思っていたら、昨日は今年のイースター(復活祭)の日だったそうである。
世の中には時折偶然の一致というものがあるが、なんとも不思議な偶然の一致だった。