だいぶ前、山岸一章「革命と青春 日本共産党員の群像」(新日本出版)という本を読んだ。
(以下はその本を読んだ時の感想)
今から四十年ほど前に書かれた本で、その時点ですでに三十年か四十年ぐらい経っていた、戦時中に非業の死を遂げた、そのほとんどが二十代だった初期の共産党員の人々について、遺族や知友人を著者が丹念に取材して書かれた本。
ぜんぜん、その名もこの本を読むまで知らなかったような、無名の、あの苦難の時代に人生を高い理想と志で生き抜いて、殺されていった人たちの人生に、なんというか、とても胸打たれた。
関淑子、高島まと子、西田信春、福田政勝、梶哲次、河野登喜雄、相沢良、渡辺てう、有賀勝、有賀芳枝、祖川三七郎・・・。
それらの人々は、本当に、菩薩のような人だった、捨身の菩薩だったと、その生涯のエピソードを知るほど、思わざるを得ない。
もちろん、共産主義や共産党に対しては、のちの時代や、ソビエト等の歴史を知っている後世の我々には、あんまり手放しでは誉められない、いろんな疑問や批判はあって当然と思う。
私もべつに、レーニン主義やリゴリスティックな共産党には、批判的な気持ちこそあれ、肩を持つ気はしない。
しかし、戦前や戦時中において、特高の暴力や弾圧を十分に知りながら、なおかつそれらに屈せず、非業の死を遂げていった、当時の二十代三十代の初期共産党の若者たちというのは、単なるイデオロギーとかそういう次元を超えた、深い人間への愛と義侠心や平和への願いから、捨身の菩薩のような生き方を身を以って示した人々だったとしか思えない。
24歳で亡くなった高島まと子は、平素友人に対して、「私たちは一刻一刻を完全に生きるのよ」と語っていたというエピソードに、本当に胸打たれ、涙が誘われる。
あまりにも惜しい、貴重な若者たちが、残忍な特高の拷問で命を落とされすぎたと、あらためて思った。
川合義虎や小林多喜二などもそうだけれど、だいたい生きておればどれだけ良かったろうかと思われる心の清い優しい人は、早くに亡くなって、なんだか野坂参三などのかなり疑問な人々ばかり、共産主義者においても生き残った気がする。
それは、他のいろんな政党や人の世にも、すべて当てはまることかもしれないけれど。
いつか、「無名戦士之墓」に訪れてお参りしたいと思った。
ちょっとあまりにも共産党サイドな表現は割引いて読まねばならぬとしても、心にのこる、良い本だった。
特に興味深かったのは、福田政勝という人物は、福田康夫前首相の父の赳夫のいとこにあたるらしく、小中学校では、福田政勝と福田赳夫がいつも最も優秀な成績だったとのエピソード。
赳夫は一高・東大・大蔵省と、権力の側を歩んでいったのに対し、福田政勝は歩もうと思えば歩めたそうした路線をすべて捨てて、自分も肉体労働などをしながら組合運動や共産党入党などをして、結核だったのに逮捕されて拷問を受けて、亡くなったという。