以前、もう三年ぐら前に、衛星第二で、「誤報が生んだ最大の決戦 フィリピン・レイテ島」という番組があっていたので見た。
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210016_00000
(以下は、その番組を見た時の感想)
私の母方の祖母の弟、つまり大叔父は、21歳でレイテ島で戦死した。
生前、祖母はときどき、いかに良い弟だったかの思い出話や、空の白木の箱しか戻ってこなかったことを無念をこめて話してくれた。
というわけで、レイテ戦には前から興味はあったのだけれど、番組を見ていると、あらためてひどいもんだなあと思った。
よく言われることではあるけれど、レイテ戦は、台湾沖航空戦の戦果を過大に見誤って、ろくに戦果を確認検討もせずに米艦隊を撃滅したと勘違いし、その勘違いの上に立ったずさんな作戦で遂行された。
インタビューに出てた人も、一週間でかたがつくと思って、一週間分の食料しかもって行かなかったことを語っていた。
最初から制空権は米軍が握っており、ほとんど日本軍は補給ができず、一方的に米軍の空爆や艦砲射撃にあい、バタバタと倒れていった。
食料補給がないので、日本軍は現地調達という名のもとに、フィリピンの人々から食料や物資を、いわば略奪せざるを得ず、現地の人から深い恨みを買ったという。
日本軍は、現地の一部の人を協力者として組織し、敵のゲリラとの対抗や諜報に使ったそうだが、敗戦後、それらの日本軍協力者は生き埋めにされたりして処刑されたそうだ。
戦争の愚かしさと罪業を、レイテ戦ほどひしひしと感じる戦争は、あんまりないかもしれない。
忘れてはならぬことなのだろう。
何回か読みかけて、あんまりきつそうだからやめてしまってきたけれど、今年は大岡昇平の「レイテ戦記」を読むことを目指そうかな。
それにしても、やっぱり、こんな無謀な作戦で、おびただしい将兵の命を損なうことになった、当時の大本営の連中は許されないと思う。
人の命をなんだと思っているんだろう。
台湾沖航空戦の戦果を過大評価せずにきちんと責任感を持って正確に見極めていたら、そして後からそれがわかったのならば、どんなに世論の反発や軍の面子がつぶれることを招いたとしても、責任をもって即刻作戦を中止していれば、何万という将兵の命も、そしてレイテ島のフィリピン人の人たちの多くの命も、助かっていたことだろう。
当時の軍のずさんな情報への態度と、無責任ぶりには、レイテ戦を思うたびにはらわたが煮えくり返る思いがする。
番組には、レイテ戦の教訓を生かすために、戦後ずっと防衛大学で教鞭をとっておられた方のインタビューもあって、とても真摯にレイテ戦の犠牲の大きさや教訓を話しておられた。
その方たちの努力が生かされて、これからも、戦後の日本に、レイテ戦の教訓が忘れられずきちんと生かされて、情報への慎重な検討や責任を持った作戦立案のモラルが確立堅持されていけばいいなあと思った。
もちろん、レイテ戦の教訓は、何も国防や軍事にのみ限ることではあるまい。
情報へのずさんな態度や政策や経営への無責任な態度をなくしてこそ、本当に先の大戦で見られた日本の無責任体制への批判や克服がなされたと言えると思う。
つい最近、新銀行東京が膨大な赤字を抱えていることが報道されて、そのことに対して都知事以下、無責任なことばかり言っているけれど、市民の金をなんだと思っているんだと腹も立つが、彼らはまだ文民で平和な時代の人間で良かったのかもしれない。
あの都知事のような人間が、あの大戦で軍や大本営の上層にでもいたら、確実にレイテ戦を引き起こしていただろうという気がする。
そして、おそらくは、何の責任もとらなかったのだろう。
レイテ戦は、終わってないのかもなあと思う。
日本の無責任体制が終わらない限り、死者の恨は消えないし、日本から無責任体制や無意味な抑圧がなくなってこそ、レイテの死者も報われるのかもしれない。
そんなことを、番組を見ながら思った。
あんな戦争があって、あんなに苦しい目にあいながら、なおかつ、無責任な威勢がいいだけの指導者を大好きな人々も多いようだし、あの時代にも見られた日本の病弊は、なかなか克服されないようだけれど。
こういう戦時中の番組を見ていて、あらためて思うのは、平和で無事な一日をいただいているということは、本当にありがたいことなんだなあということ。
この平穏な一日のありがたさを改めて感じた。
あんな戦場に放り込まれたら、本当にたまったものじゃないと思う。
一日一日の平和と無事ないのちを本当に感謝していかんとなあ。
あと、ふと祖母から聞いた話を思い出す。
大叔父は、当時満州の会社で働いていて、恋人がいたそうで、満州で赤紙が来て、はじめ東京の師団に配属になって、それからレイテ戦に向かったそうだけれど、その恋人が、満州からわざわざ日本に、レイテに行く前に会いに来たそうだ。
あの時代、満州から内地に一時的にしろやって来るのは、今からでは考えられないほど大変だったろうと思う。
大叔父は、短い生涯だったけれど、そんな恋人がいたのなら、その点はなんだかうらやましいような気もする。
大叔父に比べると、だいぶ長く現時点で生きているけれど、私にもいつになったらそんな恋人ができるのやら。
その代わりに、あんな戦場にいかないといけないならごめんだけれど、せっかく平和な世に生まれたのに、思い切って生きないと、せっかくいただいているいのちも平和ももったいないのかもしれないなあと思った。
(あれから三年近くたつが、結局大岡昇平の『レイテ戦記』は未読。来年こそはなんとか読破しよう。にしても、大東亜戦争を肯定し賛美する人々は、レイテ戦やインパール作戦についてどういうつもりなのだろう。)