スマナサーラ長老 「不安なこの世を生き抜くために」

不安なこの世を生き抜くために

不安なこの世を生き抜くために



今日、スマナサーラ長老の「不安なこの世を生き抜くために」を読んだ。
なるほどーっと思うことがいっぱい詰まった、すばらしい本だった。


特になるほどと思ったのは、


不安は生きていくエネルギーの源のようなもので、不安があればこそ人は努力する、不安がなければ努力も向上もなくなる、阿羅漢果に達していない人は不安があるのが当たり前、不安をポジティブに生かしてこの世の中をしっかり生きていくべし、


というメッセージだった。


本当に、そのとおりだなぁと思う。


また、そのためには、「他人も社会もあてにはならないので、自分でなんとかする」と覚悟を持つことと、


「その瞬間その瞬間で、まあまあ、なんとかやっていくこと」の繰り返しが人生であり、大きな成功をいきなり望んだり自分は失敗したとかあんまり思い悩むようなことはせずに、そのつどそのつど目の前のことをうまくこなしていくことのみ、


ということは、本当になるほどーっと思った。
私も自分の人生に不安の種は尽きないが、そのつどそのつど目の前のことを工夫してなんとかやっていくのみだと、気持ちがラクになった気がした。


安易に不安をなくそうとしたり、あるいは不安ですくみあがって何もしないようになってしまったり、あるいは自分の不安を直視せずにごまかしてまぎらわして生きていくよりは、自分の不安を活力の源と心得てうまく努力に転換して生きていくことこそ、これからの時代には大事な心構えなのかもしれない。


また、そのためにも、スマナサーラ長老が、若い人は「時間を無駄にするな」ということをおっしゃっているのは、なるほどなぁと思った。
私も時間を無駄にせず、「必ずすべきこと」「さぼってもいいこと」「必ず避けるべきこと」の三つをよくよく峻別して、常に目の前のことや自分の人格を向上させることに努力しようと、この本を読んでてあらためて思った。


良い一冊だった。
多くの二、三十代の人々にオススメしたい。

布施と献血と 雑感

駅前の、よく当たると言われている宝くじ売り場に長蛇の列ができていた。
私は、並ぶのもめんどくさいし、別に買わなくてもいいやと思って歩いていたら、托鉢している曹洞宗のお坊さんがいた。
ちょうど小銭が五百円玉しかなかったので、宝くじを買ったと思ってお布施した。
鉢が、空っぽだったので、これだけたくさん大勢の人が近くにいるのに、みんな宝くじには惜しげもなくお金を払うけれど、なかなかお坊さんにお布施をしようとはしないのだなぁと、ちょっとあまりにも現代の縮図のような光景に考えさせられた。
なかなか、人は貪心所からは動いても、不貪所からは動かないということだろうか。
けっこうお布施をすると気持ちいいし、百円か五百円ぐらいでこんだけすがすがしい気持ちになるならば、現代人には本当は良い心理的な療法や体験になると思うのだけど。


そのあと、献血ルームに行って、献血した。
報道で献血が不足していると聴いてたけど、けっこう多くの人が献血に来てたので、看護士さんにテレビでは不足していると言ってたけれどけっこう多くの人が来てるんですね〜、と話しかけたら、冬は不足するので報道で流してもらったら、これだけ多くの方がすぐに集まってくださいました、とのこと。
若い人もけっこう多く来てて、日本はやっぱり良い国だなあとあらためてしみじみ感じた。
今年はこれでなんとか三回献血に行くことができた。


献血も、ちょっと報道があればちゃんと人が集まることを考えれば、日本は善意や献身の心を持った人は非常に多くいる社会と思う。
なので、宝くじにばかり人が並び、僧侶への布施はほとんどないという光景だけを以って、現代日本社会が我欲ばかりというのは速断に過ぎるし、一面的な判断だろう。


今年の大震災では、多くのボランティアや募金に多くの人が善意が集まり、動いた。
なので、現代日本社会にも、多くの善意や利他心はあると思う。


ただ、おそらく、あんまり仏教的な因果法則を多くの人は知らないし心得ていないというか、布施よりも宝くじに走るような貪欲な心が、どうしても野放しになり、それを是正するような智慧や教育があんまりない、ということは言えるような気もする。


ごくごく一握りの人を除けば、宝くじは買ってもはずれて悔しい思いをするのが関の山で、買う時は貪りの心、はずれたら怒りの心と、だいたいろくなことはない。
それよりは、布施は確実に不貪心所が育ち功徳になる。


僧に布施するという、聖徳太子以来の仏教国としての日本の美風や、もっと言えば、貪ることより与えることによって自分が幸福になるという智慧など、そうした文化や気風をもっと育てると、さらに日本も良い国になるのではないかと思う。