論語 再読メモ

ふと昨夜、ぱらぱらっと論語を読み返し始めた。
まだ三分の一ぐらいだけど、なかなか面白い。
以前読んだ時と、だいぶ違うところに興味や感銘を覚える。
昔、高校の時、通学電車の中で論語はよく読んで、隅々まで読んだはずなのだけれど、時が経ってみるとだいぶ読みが違ってくるなぁと我ながら思う。
どうも正直、あんまり論語は今となっては必ずしもそんなに響かない箇所や疑問なところもあるし、管子や呉子の方がすごくないかと思うところもなきにしもあらずだけれど、ところどころはやっぱりとても良い糧となる光る言葉がある。
以下は、思いつくままに、備忘録としてのメモ書き。


そういえば、論語には「立派な人物は困窮している人を助けるけれど、金持ちを優遇しない」(「君子は急(とぼ)しきを周(すく)い、富めるを継がず」(君子周急不継富))という一節があったけれど、自民党の政治ってその真逆な気がするよなぁ。富めるを継いで、とぼしきをすくわず・・・。


「伝不習乎」(習わざるを伝うるか)、自分が本当にきちんと理解し学んでないことを伝えてしまってはいないか、ちゃんと伝え教える内容を自分は学び理解しているか、ってのは、日に三回どころか、何回も反省し気を付けないとなぁ。


「学則不固」(学べばすなわち固(かた)くなならず)、学べば視野が広がり柔軟になるのであり、頑固でなくなる、というのはとても重要なことだと思う。何かに凝り固まっている人というのは、たいてい教養も学問も不足しがちな類なのだろう。


「先難而後獲」(難きを先とし獲るを後とす)、これは人生で大切な智慧と思う。楽しいことや心地よいことだけを強調する人生観もときどき見かけるけれど、先にきついことをやっておくと、後々楽なことも結構多い。掃除は大変だが、後ですがすがしい気持ちがするものである。

論語を読んだ時はそんなに印象的ではなかったんだけど、ひさしぶりに読み返していて、「子之燕居申申如也夭夭如也」という箇所が最も感銘深かった。孔子のプライベイトな様子はのびのびしててつやつやしていた、という意味だろう。この語から察するだけで、やっぱり達人だったんだろうなぁ。


「君子務本本立而道生」(君子は本を務む、本立ちて道生ず)、立派な人物はまず根本的な事柄に努力する、根本的なことが確立してこそ人生の道は開ける、ということだろう。孔子は家族愛(孝弟)だと「本」について考えていたようだけれど、「本」を聖書と読みかえれば、とても良い言葉と思う。

「敏於事而慎於言」(事に敏に、言を慎む)。行動や物事の処理は機敏に、言葉は慎重に、という意味だろう。これは論語の中では、昔はあんまり気づかなかったけれど、今読むと最も良い言葉の一つのように思う。現代人にも非常に大切な心がけだろう。


「篤信好学守死善道」、篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くす。信念をしっかり持って学問を好み、命をかけて道を守り貫き発揮する、という意味だろう。見ているだけで元気になるような良い文章と思う。


「学如不及猶恐失之」(学は及ぶざるが如くして、なおこれを失うことを恐る)、学問というのはなかなか達成することが難しいように思い、それでもなお対象を見失わないように細心の注意を払う、という意味だろう。大切な心がけと思う。


「与其進也不与其退也」(その進むに与(くみ)し、その退くに与せざるなり)、人や時代の進歩には手助けするし参加するけれど、人や時代の退化や堕落には手助けしないし関与しないようにする、という意味だろう。とても大切な心がけと思う。


「祭如在」、祭りは在(います)が如し、神に対しては臨在しているかのように祭事を行い祈る、ということだろう。本当は、いるかのように思う、というよりも、臨在をありありと感じることの方が優れているのだろうけれど、まずは臨在しているかのように思い、きちんと日々に敬神の心を持つことが大切なのだと思う。


「多聞・多見」、本当はもうちょっと長い文章だけど、つづめると、多聞と多見が結構論語では大切にされていて、それはとても大事なことだと思う。やっぱり見聞が狭いと、どうしても視野が偏る。幅広くなんでもよく見、よく聞くことが大事なのだろう。