「同時代に生きること」と「同時に生きること」 キエルケゴールより

キエルケゴールの『哲学的断片』を読んでいて、

「同時代に生きること」と「同時に生きること」を区別してあった。

なるほどっと思ったし、とても感銘を受けた。

ただ単に同時代に生きていても、その人の言葉や生き方が何も心に響かず無関係ならばただそれだけである。
一方、たとえ時代が違っても本当にその言葉や生き方が心に響けば同時に生きていることになる。
ということである。

たとえば、イエス・キリストと同時代に生きていても、何か言っているなぁ、あるいは通っているなぁ、ぐらいに思って、全然気にもとめなかったし、自分の心や魂と無関係に過ごした人もいっぱいいたことだろう。

一方、イエスと生まれた時代は違っても、その言葉や生き方や存在が、自分にとって片時も離れることができないものであれば、それはまさに同時に生きていることになる。

そういえば、往生要集に、仏陀が生きていた当時のインドには三十億の人が住んでいて、十億の人は仏陀の説法を聴き、十億の人は仏陀の名前は知っているが説法を聴いたことがなく、十億の人は仏陀の名前すら知らなかった、ということが書いてあった。
もちろん、これは後世のわかりやすい象徴的な話で、当時のインドに三十億も人口がいたとは思えないが、当時のインドにいても、名のみ知っている人、名前すら知らない人がそれぞれ多かったであろうことは、そのとおりと思う。

過去の時代の偉大な人物も、その言葉や生き方を本当に自分が受けとめ、その響きを生きれば、同時代でなくても、まさに同時に生きていることになるのだと思う。

一方、せっかく同時代に生きながら、同時に生きていない人も、実は今の世に多いのかもしれない。
たとえば、オバマさんや、あるいは菅さんなども、ある人はその言葉にとても感銘を受けたり、大きな印象を受けても、ある人にとってはただ単に自分の不平不満やストレス解消のために悪口を投げつけるだけの対象かもしれない。

同時代に生きている人となるべく同時に、また時代が異なる人とも同時に、生きるように心がけたいと思わされる、非常に考えさせられる本だった。