ヨハネ伝の一節

今日、帰りがけ、車を運転しながら、ふと、ヨハネによる福音書の第十三章一節の以下の言葉を思い出した。


「さて、過越祭の前のことである。
エスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」


はっきり覚えていたわけではなくて、頭の中では「こよなく愛し抜かれた」という言葉に脳内変換して覚えていて思い出していたのだけれど、どういうわけか、滂沱と涙が流れて仕方なかった。


結局、イエスがどうして多くの人の心に生き続けるようになったか、ローマ帝国をひっくりかえすほどに歴史を変えていったかは、ただひとえに「この上なく愛し抜かれた」ことだけによったのだと思う。


その他には、何も残さず、むしろ散々な目にあって、何一つとして世俗的な面では報われず、何も権力や金銭の面で達成したこともなかった。


奇跡や十字架や復活のことよりも、おそらくは共に過ごした弟子たちの心には、何よりも、何か特定の出来事や行いということより、この一節に現れるような、愛やぬくもりというものが、おそらく生涯忘れえないものだったのだと思う。


それにしても、なんとこのことの、世に欠けがちで、忘れられがちなものだろう。


ひからびた、枯れきった心の砂漠のこの世界の中で、イエスはたしかにこの一点において、命の泉だったのだと思う。