中村彰 「落花は枝に還らずとも」

落花は枝に還らずとも〈上〉―会津藩士・秋月悌次郎

落花は枝に還らずとも〈上〉―会津藩士・秋月悌次郎


秋月悌次郎が主人公の小説。

横山主税が病で倒れず、秋月悌次郎が左遷されず、横山・秋月の二人が引き続き松平容保の側近くで仕えることができていたら。
手代木直右衛門よりは、もっと穏健に当を得た措置をとり続け、長州や浪士たちの怨みをあそこまで買わずに済んだのではないかという気もする。

歴史にイフをいっても仕方ないのだけれど、会津が京都でもっとも輝いた日々の立役者は秋月悌次郎だったろうし、秋月が失脚してから、会津はどうも孤立と失策を京都の地で重ねていったような気がする。
宿命というか運命というか、誰がやっても会津のあの運命は変えられなかったのかも知れないし、西郷頼母から見れば秋月悌次郎ですらも相当に問題があったと言えるのかもしれないが、私は秋月悌次郎は立派な人物だったと思うし、ああせざるをえなかったような気もする。

歴史というのは、本当に難しいものだ。

秋月悌次郎が、若い時に昌平黌で刻苦精励して塾頭にまでなって、日本一の学生と言われたほどだったというのには、本当に感嘆する。
それだけの学問と素養があったからこそ、あれほどの活躍と処世ができたのだろう。

なんというか、秋月悌次郎ほどの人物を、十分に生かしきれず、蝦夷地に左遷した幕末の会津藩の体質と判断ミスは、暗澹たる気持ちがしてくる。

幕末の、これから一番大変という時に、秋月悌次郎を左遷した会津と、ちょうどほぼ同じ頃に、西郷をカムバックさせた薩摩と、言ってもはじまらないけれど、それが藩の体質や、あるいは運命というものだろうか。

きっと、優秀な人材はどこにでもいるのだろうけれど、それを使いこなせるか、親任し続けるかで、組織の運命というのも変わってくるのかもしれない。

でも、孝明天皇の閲兵で、会津が整然とその練兵を見せた頃が、会津にとっても、松平容保にとっても、一番晴れがましい頃だったのだろうなあ。
松平容保というのは、本当に気の毒な人で、他にどんな選択肢がありえたのか私にはよくわからないけれど、しいていえば五濁の悪世にあまり向かない人だったのだろう。

大変かわいそうだし、気の毒だけれど、でも、見ようによっては、松平容保のような主君を持つことができた秋月悌次郎も、秋月悌次郎らのような家臣を持つことができた松平容保も、世にいうしあわせとはまただいぶ異なった形ではあるけれど、案外としあわせではあったのかもしれない。