善導大師のことばと死刑と

死刑執行:1年8カ月ぶり執行、民主政権で2度目
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120329dde001040004000c.html



今日、たまたま、善導大師の『観経疏』を読んでいたら、こんな箇所があった。


「しかるに殺業に多種あり。
あるいは口殺あり、あるいは身殺あり、あるいは心殺あり。
「口殺」といふは、処分許可するを名づけて口殺となす。
「身殺」といふは、身手等を動かし指授するを名づけて身殺となす。
「心殺」といふは、方便を思念して計校する等を名づけて心殺となす。
もし殺業を論ぜば四生を簡ばず、みなよく罪を招きて浄土に生ずることを障ふ。」


現代語訳してみるならば、


「しかるに、殺生という行為にはいくつかの種類があります。
口殺(言葉による殺生)、身殺(身体による殺生)、心殺(心による殺生)です。
口殺とは、殺すことを命じたり許可することです。
身殺とは、身体や手を動かして殺すことを指示することです。
心殺とは、殺すための方法を思い考え、はからうことなどのことです。
殺業(殺生という行為)はどのような生き物であろうと、皆どれも罪を招き、浄土に往生することを妨げます。」


という意味だ。


ちなみに、善導大師は、観経疏だけでなく、「般舟讃」という書物の中にも、
「見聞・方便・処分の殺」 、
つまり、「他人が殺生するのを見たり聞いたりして喜びを感じたり、人を殺害する計画を思いめぐらしたり、人を殺害することを許可命令すること」も、はかりしれない地獄の苦しみを受ける、ということを述べている。
「処分の殺」、つまり死刑の許可命令も、地獄に落ちると、はっきり述べている。


もちろん、千四百年ぐらい前の善導大師の言葉を信じるも信じないも各人の自由だろう。
日本の仏教の伝統では、浄土真宗と浄土宗は善導大師を祖師の一人として位置づけている。
だが、今の時代、仏教など信じないという人も多いかもしれない。


ただ、私が若干疑問なのは、小川法相は、自分が「口殺」や「心殺」、「処分の殺」を行ったとはっきり自覚をしているのかどうかということだ。
その自覚があるうえでならば、それはそれでその人の覚悟や考え方だろうとは思う。
だが、千葉元法相が死刑執行の現場に立ち会ったのと比べて、小川法相は現場に立ち会ったとも聞かない。


もし善導大師の言っているような立場に立つならば、はたして法務大臣は簡単に死刑の執行にサインできるのだろうか。


あるいは、簡単ではない苦渋の決断だったのかもしれない。
そうであるならば、千葉元法相のように、死刑執行の現場に立ち会うべきではなかったか。


現場の刑務官にのみ実際に命を奪うという重みを負わせ、自分だけは遠くからあまり実感もなく紙にサインしただけだったとしたら。
やはり、その場合は、善導大師が述べているようなことは免れられないと、私には思える。


もちろん、これは念仏者としての私の感想であり、違う感想や考えを持つ人も多いと思う。
ただし、昔の、長い歴史の中で祖師や聖者として敬われてきた人の、深い深い思索や領解の上での言葉は、われわれ現代人がなかなか思いもつかない、案外といのちの実相や真理について、的確なことを言っている場合もあるのではないだろうか。

善導大師における人間の条件

善導大師の観経疏を読んでいたら、はっとさせられる箇所があった。

「あるいは人ありて三種分(慈心不殺・読誦大乗・六念)なきを、名づけて人の皮を着たる畜生となす、人と名づくるにあらず。」

つまり、

「慈しみの心で生きものを殺さないという戒めを保つこと、大乗経典を理解して読むこと、六念(仏法僧施戒天の六つを念じ生きること)の三つのどれ一つとして具えていない人は、人の皮を来ている畜生であって人間とは言えない。」

ということである。

異例の強い語気というか、非常に強い言葉だ。

この三つともない、ということは、要するに、慈悲の心もなくいのちを殺害し、大乗仏教を学ぶこともせず、六念もない、この三つのどれもない人は、人間の条件を欠いている、ということなのだろう。

もちろん、このどれか一つでも具えていれば、人間である、ということでもある。

たいていの人は、どれかは持っているのかもしれない。

しかし、稀には、僧侶や仏教者を自称しながら、この三つの条件を欠いている人もごくまれにはいるようである。

大事な言葉だと思う。