増支部経典 第九集 抜粋メモ 2

支部経典 第九集 第四十一節 多梨富沙


一、かくの如く我聞けり。ある時、世尊は末羅(マッラ)国・鬱鞞羅劫波(ウルヴェーラカッパ)という末羅人の邑に住したまえり。時に、世尊は晨朝時に下衣を著け鉢衣を持し鬱鞞羅劫波に入りて乞食したまえり。鬱鞞羅劫波において乞食に歩み、食後、乞食より還りて具寿阿難に告げて言いたまえり―
阿難よ、しばらくここに居れ、その間に我、大林(マハーヴァナ)に入りて昼日住せん。
唯々大徳よ。
と具寿阿難は世尊に応えたり。時に、世尊は大林に入り一樹下において昼日住して坐したまえり。

二、多梨富沙(タプッサ)居士あり、具寿阿難の処に到れり、到りて具寿阿難を敬礼して一面に坐せり。一面に坐して多梨富沙居士は具寿阿難に言えり―
大徳阿難よ、我等在家人は諸欲を享け諸欲を歓び、諸欲を喜び、諸欲を悦ぶ。大徳よ、我等在家人、諸欲を享け諸欲を歓び、諸欲を喜び、諸欲を悦ぶに、かの出離は嶮峻の如し。大徳よ、我聞くらく、この法・律の中にありて各々の壮年の比丘、出離において心進み、澄み、安住し、「これ、寂静なり」と観じて解脱す、大徳よ、この法・律の中にありて諸比丘と大衆との不倶あり、謂く出離なりと。
居士よ、これ、談るべき所なり。居士よ、我等往きて世尊を見たてまつらん、世尊の在す処に詣らん、詣りて世尊にこの義を白さん、世尊の説きたまうが如くこれを受持せん。
唯々大徳よ。
と多梨富沙居士は具寿阿難に応えたり。

三、時に、具寿阿難は多梨富沙居士と相倶に世尊の在す処に詣れり、詣りて世尊を敬礼して一面に坐せり。一面に坐して具寿阿難は世尊に白して言えり―
大徳よ、ここに多梨富沙は言う、「大徳阿難よ、我等在家人は諸欲を享け諸欲を歓び、諸欲を喜び、諸欲を悦ぶ。大徳よ、我等在家人、諸欲を享け諸欲を歓び、諸欲を喜び、諸欲を悦ぶに、かの出離は嶮峻の如し。大徳よ、我聞くらく、この法・律の中にありて各々の壮年の比丘、出離において心進み、澄み、安住し、「これ、寂静なり」と観じて解脱す、大徳よ、この法・律の中にありて諸比丘と大衆との不倶あり、謂く出離なりと」。

四、阿難よ、かくの如し、阿難よ、かくの如し。阿難よ、我もまた未だ等覚せず現等覚せずして菩薩なりしとき、思念せり、「善い哉出離、善い哉出離」と。
阿難よ、そのとき我、出離において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せざりき。阿難よ、そのとき我、思念せり、「何の因により何の縁によりて我、出離において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せざるや」と。
阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、諸欲において未だ過患を見ず、これを多習せず、出離において未だ功徳を証得せず、これを修せず。この故に我、出離において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せず」と。阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、もし諸欲において過患を見てこれを多習し、出離において功徳を証得してこれを修せんか、処(ことわり)として我、出離において心進み、澄み、安住し、「これ、寂静なり」と観じて解脱せん」と。
阿難よ、我、後時において、諸欲において過患を見てこれを多習し、出離において功徳を証得してこれを修せり。阿難よ、そのとき我、出離において心進み、澄み、安住し、「これ、寂静なり」と観じて解脱せり。
阿難よ、我、後時において、諸欲を離れ、諸の不善法を離れ、有尋・有伺にして離より生じたる喜と楽とある初静慮を具足して住せり。阿難よ、我、この住によりて住するとき、欲と倶行する想・作意、現行するは、これ、わが病なり。阿難よ、譬えば安楽なる者において苦悩生じ、病を致すが如し。かくの如く、我に欲と倶行する想・作意、現行するは、これ、わが病なり。

五、阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、よろしく、尋伺止息するがゆえに内浄となり、心一趣となり、無尋・無伺にして三摩地より生じたる喜と楽とある第二静慮を具足して住すべし」と。
阿難よ、そのとき我、無尋において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せざりき。阿難よ、そのとき我、思念せり、「何の因により何の縁によりて我、無尋において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せざるや」と。
阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、諸の尋において未だ過患を見ず、これを多習せず、無尋において未だ功徳を証得せず、これを修せず。この故に我、無尋において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せず」と。
阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、もし諸の尋において過患を見てこれを多習し、無尋において功徳を証得してこれを修せんか、処(ことわり)として我、無尋において心進み、澄み、安住し、「これ、寂静なり」と観じて解脱せん」と。
阿難よ、我、後時において、諸の尋において過患を見てこれを多習し、無尋において功徳を証得してこれを修せり。阿難よ、そのとき、我、無尋において心進み、澄み、安住し、「これ、寂静なり」と観じて解脱せり。
阿難よ、我、後時において、尋伺止息するがゆえに内浄となり、心一趣となり、無尋・無伺にして三摩地より生じたる喜と楽とある第二静慮を具足して住せり。阿難よ、我、この住によりて住するとき、尋と倶行する想・作意の現行するはこれ、わが病なり。阿難よ、譬えば、安楽なる者において苦悩生じ、病を致すが如し。かくの如く、我に尋と倶行する想・作意の現行するは、これ、わが病なり。

六、阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、よろしく、喜を離るがゆえに捨にして住し、正念正知し、楽を身に正受し、諸の聖者の宣説するが如く捨と念とありて楽住し、第三静慮を具足して住すべし」と。
阿難よ、そのとき、我、無喜において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せざりき。阿難よ、そのとき我、思念せり、「何の因により何の縁によりて我、無喜において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せざるや」と。
阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、喜において未だ過患を見ず、これを多習せず、無喜において未だ功徳を証得せず、これを修せず。この故に我、無喜において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せず」と。
阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、もし喜において過患を見てこれを多習し、無喜において功徳を証得してこれを修せんか、処(ことわり)として我、無喜において心進み、澄み、安住し、「これ、寂静なり」と観じて解脱せん」と。
阿難よ、我、後時において、喜において過患を見てこれを多習し、無喜において功徳を証得してこれを修せり。阿難よ、そのとき、我、無喜において心進み、澄み、安住し、「これ、寂静なり」と観じて解脱せり。
阿難よ、我、後時において、喜を離るがゆえに捨にして住し、正念正知し、楽を身に正受し、諸の聖者の宣説するが如く捨と念とありて楽住し、第三静慮を具足して住せり。阿難よ、我、この住によりて住するとき、喜と倶行する想・作意の現行するはこれ、わが病なり。阿難よ、譬えば、安楽なる者において苦悩生じ、病を致すが如し。かくの如く、我に喜と倶行する想・作意の現行するは、これ、わが病なり。

七、阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、よろしく、楽を断じ苦を断ずるが故に、及び先にすでに憂と喜と滅したるが故に、不苦不楽にして捨念清浄なる第四静慮を具足して住すべし」と。
阿難よ、そのとき、我、不苦不楽において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せざりき。阿難よ、そのとき我、思念せり、「何の因により何の縁によりて我、不苦不楽において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せざるや」と。
阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、捨楽において未だ過患を見ず、これを多習せず、不苦不楽において未だ功徳を証得せず、これを修せず。この故に我、不苦不楽において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せず」と。
阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、もし捨楽において過患を見てこれを多習し、不苦不楽において功徳を証得してこれを修せんか、処(ことわり)として我、不苦不楽において心進み、澄み、安住し、「これ、寂静なり」と観じて解脱せん」と。
阿難よ、我、後時において、捨楽において過患を見てこれを多習し、不苦不楽において功徳を証得してこれを修せり。阿難よ、そのとき、我、不苦不楽において心進み、澄み、安住し、「これ、寂静なり」と観じて解脱せり。
阿難よ、我、後時において、楽を断じ苦を断ずるが故に、及び先にすでに憂と喜と滅したるが故に、不苦不楽にして捨念清浄なる第四静慮を具足して住せり。阿難よ、我、この住によりて住するとき、捨と倶行する想・作意の現行するはこれ、わが病なり。阿難よ、譬えば、安楽なる者において苦悩生じ、病を致すが如し。かくの如く、我に捨と倶行する想・作意の現行するは、これ、わが病なり。

八、阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、よろしく、遍じて色想を超え、有対想を滅し、種々想を作意せざるが故に、「空は無辺なり」と空無辺処を具足して住すべし」と。
阿難よ、そのとき、我、空無辺処において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せざりき。阿難よ、そのとき我、思念せり、「何の因により何の縁によりて我、空無辺処において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せざるや」と。
阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、諸色において未だ過患を見ず、これを多習せず、空無辺処において未だ功徳を証得せず、これを修せず。この故に我、空無辺処において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せず」と。
阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、もし諸色において過患を見てこれを多習し、空無辺処において功徳を証得してこれを修せんか、処(ことわり)として我、空無辺処において心進み、澄み、安住し、「これ、寂静なり」と観じて解脱せん」と。
阿難よ、我、後時において、諸色において過患を見てこれを多習し、空無辺処において功徳を証得してこれを修せり。阿難よ、そのとき、我、空無辺処において心進み、澄み、安住し、「これ、寂静なり」と観じて解脱せり。
阿難よ、我、後時において、遍じて色想を超え、有対想を滅し、種々想を作意せざるが故に、「空は無辺なり」と空無辺処を具足して住せり。阿難よ、我、この住によりて住するとき、色と倶行する想・作意の現行するはこれ、わが病なり。阿難よ、譬えば、安楽なる者において苦悩生じ、病を致すが如し。かくの如く、我に色と倶行する想・作意の現行するは、これ、わが病なり。

九、阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、よろしく、遍じて空無辺処を超え、「識は無辺なり」と識無辺処を具足して住すべし」と。
阿難よ、そのとき、我、識無辺処において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せざりき。阿難よ、そのとき我、思念せり、「何の因により何の縁によりて我、識無辺処において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せざるや」と。
阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、空無辺処において未だ過患を見ず、これを多習せず、識無辺処において未だ功徳を証得せず、これを修せず。この故に我、識無辺処において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せず」と。
阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、もし空無辺処において過患を見てこれを多習し、識無辺処において功徳を証得してこれを修せんか、処(ことわり)として我、識無辺処において心進み、澄み、安住し、「これ、寂静なり」と観じて解脱せん」と。
阿難よ、我、後時において、空無辺処において過患を見てこれを多習し、識無辺処において功徳を証得してこれを修せり。阿難よ、そのとき、我、識無辺処において心進み、澄み、安住し、「これ、寂静なり」と観じて解脱せり。
阿難よ、我、後時において、遍じて空無辺処を超え、「識は無辺なり」と識無辺処を具足して住せり。阿難よ、我、この住によりて住するとき、空無辺処と倶行する想・作意の現行するはこれ、わが病なり。阿難よ、譬えば、安楽なる者において苦悩生じ、病を致すが如し。かくの如く、我に空無辺処と倶行する想・作意の現行するは、これ、わが病なり。

十、阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、よろしく、遍じて識無辺処を超え、「無所有なり」と無所有処を具足して住すべし」と。
阿難よ、そのとき、我、無所有処において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せざりき。阿難よ、そのとき我、思念せり、「何の因により何の縁によりて我、無所有処において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せざるや」と。
阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、識無辺処において未だ過患を見ず、これを多習せず、無所有処において未だ功徳を証得せず、これを修せず。この故に我、無所有処において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せず」と。
阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、もし識無辺処において過患を見てこれを多習し、無所有処において功徳を証得してこれを修せんか、処(ことわり)として我、無所有処において心進み、澄み、安住し、「これ、寂静なり」と観じて解脱せん」と。
阿難よ、我、後時において、識無辺処において過患を見てこれを多習し、無所有処において功徳を証得してこれを修せり。阿難よ、そのとき、我、無所有処において心進み、澄み、安住し、「これ、寂静なり」と観じて解脱せり。
阿難よ、我、後時において、遍じて識無辺処を超え、「無所有なり」と無所有処を具足して住せり。阿難よ、我、この住によりて住するとき、識無辺処と倶行する想・作意の現行するはこれ、わが病なり。阿難よ、譬えば、安楽なる者において苦悩生じ、病を致すが如し。かくの如く、我に識無辺処と倶行する想・作意の現行するは、これ、わが病なり。

十一、阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、よろしく、遍じて無所有処を超え、非想非非想処を具足して住すべし」と。
阿難よ、そのとき、我、非想非非想処において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せざりき。阿難よ、そのとき我、思念せり、「何の因により何の縁によりて我、非想非非想処において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せざるや」と。
阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、無所有処において未だ過患を見ず、これを多習せず、非想非非想処において未だ功徳を証得せず、これを修せず。この故に我、非想非非想処において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せず」と。
阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、もし無所有処において過患を見てこれを多習し、非想非非想処において功徳を証得してこれを修せんか、処(ことわり)として我、非想非非想処において心進み、澄み、安住し、「これ、寂静なり」と観じて解脱せん」と。
阿難よ、我、後時において、無所有処において過患を見てこれを多習し、非想非非想処において功徳を証得してこれを修せり。阿難よ、そのとき、我、非想非非想処において心進み、澄み、安住し、「これ、寂静なり」と観じて解脱せり。
阿難よ、我、後時において、遍じて無所有処を超え、非想非非想処を具足して住せり。阿難よ、我、この住によりて住するとき、無所有処と倶行する想・作意の現行するはこれ、わが病なり。阿難よ、譬えば、安楽なる者において苦悩生じ、病を致すが如し。かくの如く、我に無所有処と倶行する想・作意の現行するは、これ、わが病なり。

十二、阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、よろしく、遍じて非想非非想処を超え、想受滅を具足して住すべし」と。
阿難よ、そのとき、我、想受滅において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せざりき。阿難よ、そのとき我、思念せり、「何の因により何の縁によりて我、想受滅において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せざるや」と。
阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、非想非非想処において未だ過患を見ず、これを多習せず、想受滅において未だ功徳を証得せず、これを修せず。この故に我、想受滅において心進まず、澄まず、安住せず、「これ、寂静なり」と観じて解脱せず」と。
阿難よ、そのとき我、思念せり、「我、もし非想非非想処において過患を見てこれを多習し、想受滅において功徳を証得してこれを修せんか、処(ことわり)として我、想受滅において心進み、澄み、安住し、「これ、寂静なり」と観じて解脱せん」と。
阿難よ、我、後時において、非想非非想処において過患を見てこれを多習し、想受滅において功徳を証得してこれを修せり。阿難よ、そのとき、我、想受滅において心進み、澄み、安住し、「これ、寂静なり」と観じて解脱せり。
阿難よ、我、後時において、遍じて非想非非想処を超え、想受滅を具足して住し、慧を以て観じて我諸漏尽きたり。

十三、阿難よ、我、いまだこの九の次第住等至にかくの如く順逆に出入せざりし間は、阿難よ、我は天・魔・梵天の世界・沙門婆羅門・人・天の衆生界において、無上正等覚を現等覚せりとは称せざりき。阿難よ、しかるに我、この九の次第住等至にかくの如く順逆に出入せるが故に、阿難よ、我は天・魔・梵天の世界・沙門婆羅門・人・天の衆生界において、無上正等覚を現等覚せりと称したり。我はまた智と見とを得たり、「わが心解脱は不動なり、これ、わが最後の生なり、さらにまた後有を受けず」と。



支部経典 第九集 第七十一節 心栽


一、諸比丘よ、五の心栽あり。何をか五と為すや。
二、諸比丘よ、ここに比丘あり、師を疑い、惑い、信解せず、浄信せず。諸比丘よ、比丘もし師を疑い、惑い、信解せず、浄信せずば、その心は熾然・勤修・常行・精勤に傾かず。その心もし熾然・勤修・常行・精勤に傾かずばこれ、第一の心栽なり。
三、諸比丘よ、また次に比丘あり、法を疑い、惑い、信解せず、浄信せず。諸比丘よ、比丘もし法を疑い、惑い、信解せず、浄信せずば、その心は熾然・勤修・常行・精勤に傾かず。その心もし熾然・勤修・常行・精勤に傾かずばこれ、第二の心栽なり。
諸比丘よ、また次に比丘あり、僧を疑い、惑い、信解せず、浄信せず。諸比丘よ、比丘もし僧を疑い、惑い、信解せず、浄信せずば、その心は熾然・勤修・常行・精勤に傾かず。その心もし熾然・勤修・常行・精勤に傾かずばこれ、第三の心栽なり。
諸比丘よ、また次に比丘あり、学を疑い、惑い、信解せず、浄信せず。諸比丘よ、比丘もし学を疑い、惑い、信解せず、浄信せずば、その心は熾然・勤修・常行・精勤に傾かず。その心もし熾然・勤修・常行・精勤に傾かずばこれ、第四の心栽なり。
諸比丘よ、また次に比丘あり、同梵行者において怒り、歓ばず、心激し、荒る。諸比丘よ比丘もし同梵行者において怒り、歓ばず、心激し、荒るれば、その心は熾然・勤修・常行・精勤に傾かず。その心もし熾然・勤修・常行・精勤に傾かずばこれ、第五の心栽なり。
諸比丘よ、これを五の心栽と為す。
四、諸比丘よ、この五の心栽を断ぜんがために四念処を修習すべし。何をか四と為すや…(乃至)…
諸比丘よ、かの五の心栽を断ぜんがためにこの四念処を修習すべし。



支部経典 第九集 第七十二節 心縛


一、諸比丘よ、五の心縛あり。何をか五と為すや。
二、諸比丘よ、ここに比丘あり、欲において離貪ならず、離欲ならず、離愛ならず、離渇ならず、離悩ならず、離渇愛ならず。諸比丘よ、比丘もし欲において離貪ならず、離欲ならず、離愛ならず、離渇ならず、離悩ならず、離渇愛ならずば、その心は熾然・勤修・常行・精勤に傾かず。その心もし熾然・勤修・常行・精勤に傾かずばこれ、第一の心縛なり。
三、諸比丘よ、また次に比丘あり、身において離貪ならず、離欲ならず、離愛ならず、離渇ならず、離悩ならず、離渇愛ならず。諸比丘よ、比丘もし身において離貪ならず、離欲ならず、離愛ならず、離渇ならず、離悩ならず、離渇愛ならずば、その心は熾然・勤修・常行・精勤に傾かず。その心もし熾然・勤修・常行・精勤に傾かずばこれ、第二の心縛なり。
諸比丘よ、また次に比丘あり、色において離貪ならず、離欲ならず、離愛ならず、離渇ならず、離悩ならず、離渇愛ならず。諸比丘よ、比丘もし色において離貪ならず、離欲ならず、離愛ならず、離渇ならず、離悩ならず、離渇愛ならずば、その心は熾然・勤修・常行・精勤に傾かず。その心もし熾然・勤修・常行・精勤に傾かずばこれ、第三の心縛なり。
諸比丘よ、また次に比丘あり、欲するに随て満腹に食しおわりて臥楽・倚楽・睡眠楽に耽りて住す。諸比丘よ、比丘もし欲するに随て満腹に食しおわりて臥楽・倚楽・睡眠楽に耽りて住せば、その心は熾然・勤修・常行・精勤に傾かず。その心もし熾然・勤修・常行・精勤に傾かずばこれ、第四の心縛なり。
諸比丘よ、また次に比丘あり、随一の天衆を誓願して梵行を行じ、「我、この戒・禁・苦行・梵行によりて天もしくは随一天とならん」と為す。諸比丘よ、比丘もし随一の天衆を誓願して梵行を行じ、「我、この戒・禁・苦行・梵行によりて天もしくは随一天とならん」と為さば、その心は熾然・勤修・常行・精勤に傾かず。その心もし熾然・勤修・常行・精勤に傾かずばこれ、第五の心縛なり。
諸比丘よ、これを五の心縛と為す。
四、諸比丘よ、この五の心縛を断ぜんがために四念処を修習すべし。何をか四と為すや…(乃至)…
諸比丘よ、かの五の心縛を断ぜんがためにこの四念処を修習すべし。