小説 「ある友人の思い出」

先日、なんとも不思議なことがあった。
 たぶん誰も信じないだろうが、私のある思い出が、全く存在しなかったという事実である。
 その場合、私の記憶は、いったいどうなるのだろうか。
 
 私が大学生の頃、B君という友人がいた。
 思い出は、このB君に関わることである。
 B君は、眼鏡をかけていて、姿勢が良く、背は私よりも低く、ほっそりしていて、とても真面目だった。
 いつも大学の講義では、最も前の方の席に座って、真面目に講義を受けていた。
 一年生の時は、どういうわけかB君をよく知らず、二年ぐらいから、きっかけは何だったのか忘れたが、よく話すようになった。
 家はごく近所だった。彼のアパートにも何度か遊びに行ったことがある。
 なぜか随分古風な歌が好きで、藤山一郎という、私はB君からはじめて聞いた、戦前の歌手の歌のCDをよくかけて聞いていた。

 私とB君は法学部だったが、二人ともあまり法律には熱心でなく、文学が好きだった。
 B君は俳句が趣味で、俳句だけでなく、いろいろ小説や古い詩歌もよく読んでいた。
 私は、B君の紹介で、文学部のY先生を始めて知った。
 Y先生は、白髪の、漂々とした、優しい先生だった。
 B君のおかげで、Y先生の俳句の会に私も入った。
 私は高校時代に短歌づくりが趣味だったので、俳句もB君から勧められてやってみる気になったのである。

何度か、Y先生たちと、俳句の吟行に行ったことがあった。
毎回、とても楽しかった。
Y先生の大学院での教え子に、TさんとWさんという二人の女性がいた。
 Tさんは、ほっそりした面立ちの、容姿はべつに人並みだったが、とても感じの良い優しい先輩だった。
 WさんはTさんよりはたしか二つぐらい年下で、私よりはちょっと年上の、目の丸くてかわいらしい、生き生きとした人だった。
しかし、Wさんはもう婚約しており、「いいなずけ」がいる、と随分古風な言い回しでそのことを言っていた。
たぶんB君はTさんを好きなのだろうと私は勝手に思っていたし、Wさんにいいなずけがいないのならば、私はWさんを好きになっていたのかもしれない。
 Y先生はもちろん、TさんもWさんもとても俳句が上手だった。
 私は拙い俳句しかつくれなかったが。

 あれは、大学三年の夏休みのことだった。
 B君がレンタカーを借りてきて、Y先生とTさんとWさんと私と五人で、ずいぶんと山奥に一泊で俳句の吟行に行った。
 私はまだ免許をとっていなかったが、B君はすでに免許をとってくれていた。
 市内にI川という川が流れており、その水源を訪れるという計画も、B君が立ててくれた。
 ものすごく山奥までずいぶん車を走らせて、ぐねぐねした田舎道を入っていった。
ずいぶんと行った先に、そこは信じられないほど美しい水源があって、澄んだ水のある池が緑に囲まれて存在していた。
B君とTさんとWさんは裸足になって楽しそうに涼み、私もちょっと水に入ろうとしたがあまりにも水が冷たく感じてすぐにやめた。Y先生も楽しそうにしていた。
 その近くに、小学校の廃校跡を宿泊所にしているところがあり、そこに泊まった。
 Y先生は、いまはすっかり忘れてしまったが、感嘆するほど良い句を次々につくっていた。
 蛍もまだ少しいて、美しかった。

 その宿泊の晩御飯の時、何かの話の流れの中で、たまたま天皇や皇室の話になった。
 ふだんはそんな話はぜんぜんしないのだけれど、Y先生は大変皇室が好きなようで、TさんとWさんも意外に素朴にすごく皇室を尊敬しているようで、ちょっと意外で驚いた。
 今どきあまり聞かない最上級の敬語を使って話していた。
 B君もそんな感じだった。
 今どき、これほど皇室を尊敬していて親しみを感じている人もいるのだなぁと、ちょっと驚いた。

 そんな楽しい思い出もいろいろあったが、大学を卒業し、引っ越すと、自然とY先生やTさんやWさんとは会うこともなくなり、思い出すこともなく、ずっと卒業以来会ったことがなかった。
 B君については、ときどき思い出すこともあったが、一度、B君から電話がかかってきた時に、あまりにも忙しくゆっくり対応できずにいたら、なんとなく向こうもこちらの気配を察し、それ以来電話はかかってこなかった。
 音信不通になったが、どこかでB君も元気にやっているだろうと、あまり気に留めずに過ごしているうちに、あっという間に随分時が経っていった。

 その間、ちょっと妙なことがあった。
 大学の時の同じ学部の同級生にたまに会った時に、B君について尋ねても、誰もB君について覚えていないのである。
 そんな人いたっけ?誰それ?といった反応だった。
 わりと一学年に人数がいるので、知らない場合もあろうかと思い、特に気に留めていなかったが、それが三人、四人ともなると、ちょっと妙に感じていた。

 それだけではない。
 先日、ある研究会で、私の出身大学の文学部の出身の方にお会いした。
 私よりちょっと先輩だが、だいたい同じぐらいの時に大学にいたのだから、Y先生のことを当然知っているだろうと思い、尋ねてみたところ、知らない、そんな先生はいなかった、というのである。
 たしかに文学部の先生と聞いたが、だったら教育学部とか、別の先生だったのだろうか、と不思議に思った。

 それから少し経って、先日、何の気なしに、Y先生の名前をインターネットで検索してみた。
 すると、Y先生については見つからなかったのだが、同姓同名で戦前の旧制高校の時代の教授に同じ人物の名前が見つかった。
 名前が同じだけで、別人だろうと思ったが、国語及び漢文担当の旧制高校の教授だったらしく、地域に俳句の雑誌をつくり、地域の文化の振興に努めていたとか。
 遺稿集も出版されており、検索してみたところ、市の総合図書館にも所蔵があった。
まさかと思いつつ、取り寄せて見てみた。

 すると、なんとも奇妙なことがあった。
 その本は、青い背表紙の、かなり古い、1950年代の出版で、Y先生についてその弟子や交友があった人々が偲んだ文章とY先生の俳句や俳文を集めてあった。
 古いが、あまり本が傷んでいないところを見ると、ほとんど読んだ人がいないのだろう。
 開いてみると、何枚かの白黒の写真が、本の最初の方に載っていたが、そのうちの一枚に息を呑んだ。
Y先生と、その本に載っている同姓同名の旧制高校の教授の顔かたちがよく似ているのである。
 服装はもちろん違うし、髪型もやや異なるが、実によく似ている。
 いや、これは同一人物としか思えない。
 それだけではない。
 地域の俳句の同人たちと一緒に写っているという写真に、B君とTさんとWさんにそっくりの人たちが映っていたのである。
 もっとも、服装はそれぞれ、あの時代の和装の袴を着ている。
 その本によると、Y氏は昭和20年7月1日の市の大空襲で亡くなったそうで、その時にたまたま一緒に集まっていた弟子も死に、冒頭の写真に一緒に載っていた若い人たちの何人かも、その時に犠牲になったそうである。
 
 私は、このなんとも奇妙な話を、どう解釈したらいいのか、いまだによくわからない。
 あの時にたしかに生き生きと私の側に存在していた彼らは、皆完全なる幻か白昼夢だったのだろうか。
 その笑顔も笑い声も、すべて幻覚で、私は狐か狸かに化かされていたか、霊界に足を踏み入れていたのだろうか。
 ちなみに、I川には、そんなきれいな水源はなく、あの廃校の小学校の宿も存在していないことが、その後インターネットで調べてわかった。
 また、大学の卒業アルバムを持っている友人に頼んで見せてもらったが、やはりB君はおらず、Y先生についての記述もなかった。