小説 「コロナの春に」

 「コロナの春に」

 

 つまらない。

 なぜかそう思ってしまう。

 朝起きても、なんとなくやる気が起こらず、ぐだぐだと過ごしてしまう。

 

 コロナウイルスが全世界に蔓延し、一時は株価が大暴落し、このまま資本主義の終焉かとも思いきや、意外と数日で持ち直して、また株価は元の値にほぼ戻ってきた。

 この世の終わりがやっと来るかと思ったのに、つまらないものである。

 

 隆司は気分を変えようかと思い、美容院に髪を切りに行ってみた。

 この前行った時から、もう一か月とちょっと経っているので、ちょうど良い頃だった。

 美容師のHさんは、無駄口はあまりきかない、この種の職業にしてはめずらしい、男らしい男だが、ちょっとばかり世間話になると、やはりコロナの話だった。

 近くの市にも、ついに患者が出たとのことで、隆司はニュースをよく把握してなかったので、ついにそこまで来たかと思った。

 とはいえ、そんなに危機感が起こるわけでもない。

 ニュースも世間話もその話ばかりで、わざとらしく皆がマスクをつけているが、もういいかげんコロナにうんざりして、あきあきしてきたのである。

 

 そういえば、オリンピックが延期になった。Hさんは、髪を器用に切りながら、延期した場合、来年だといろいろすでに多くの人々が予定が決まってしまっていて、日程の調整がむずかしい、ということと、二年後に伸ばすとサッカーのワールドカップとぶつかる、ということの懸念を述べていた。

 Hさんは昔はサッカーをしていたらしく、大のサッカーファンで、ときどきそうした話題を隆司に振るが、隆司はサッカーはさっぱり見ないし知らないので、話がかみあわない。隆司は大相撲は好きだが、Hさんは相撲はさっぱり見ないそうである。

 にしても、二年後にワールドカップとオリンピックがあるとすると、日本はともかくとして、欧米や南米の人は、その一年間はほとんど仕事が手につかず、働かない一年間になるのではないか。

 それはそれで面白い気もする。

 

 そんなこんな話をしながら、髪を切り終わって、椅子をくるっと回して、支払いを済ませて、隆司は帰途へついた。

 歩いていたら、道路際に、美しい芝桜が咲いていた。実にあざやかなものである。

 人間の世界が実にくだらないのに対し、花は裏切ることなく誠実に咲いてくれるのだから、ありがたいものである。

 日本の中世の詩人が、年がら年中花鳥風月ばかり追っていたのも、ほとほと世の馬鹿らしさに愛想がついていたからだったのかもしれない。

 

 この頃は、ニュースを見るのも新聞を読むのもおっくうで、二年前に自殺した財務省の職員の手記が週刊誌に載っていて、読むとなんとも気の毒だったけれど、こういうのが流れてもいまだに50%近い支持率が政権にあって、また政権に尖鋭に反対する最近できた小さな野党は、MMTなどという馬鹿げた与太話しか言わないし、与党にも野党にもほとほとうんざりしているので、政治についてまともに考えることが実にばかばかしい気持ちにはなっていた。

 そんなことを考えるよりは、この季節の美しい花を見逃さないように、しっかり花を見て回った方がよほど手ごたえがあるし良いような気する。

 

 そう思って、ぶらぶら歩きながら、近所の花をスマホで撮影して過ごした。

 その時は、そうしたこともくだらないことのように思えたけれど、翌日や、もっと経ってから、その時の写真を見直してみると、きれいな花が見れてよかったと思う。

 この人生に何か意味があるかはよくわからないが、とりあえず美しい花を見たら、その分は、得したと言えるのではないだろうか。

 

 弱い一般民衆には、政府の対応が誤っていて、疫病が蔓延してその疫病でいずれみんな死んでしまうとしても、その日その日を楽しく生きて、何か美しい善いものを見ていたら、その分、いちおう生きて得したし悔いはないということになるのかもしれない。

 べつに疫病が蔓延せず、代わり映えのしないうんざりとした緩慢な日々が続いたとしても、いずれ人は死なねばならないわけだが、その時にも、きれいな花を見た分は、得したということになるのかもしれない。

 

 そんなことをつらつら考えてみたが、それでも何か釈然としない、なにやらつまらないようなものが、腹の中にどんよりと残っている。

 昔、志士仁人は、よく雪の日にテロを決行していたものだけれど、雪ではなくて桜の季節にもそうしたことは合うだろうか。

 だが、それもどうせつまらないし、疲れることなのだろう。

 

 与党も野党も、実につまらないので、井伊直弼伊藤博文などと違って、殺し甲斐もないのだと思う。

 

 そんな物騒なことを、のどかな花を見ながら、ぼんやりと思ったりするのは、春の陽ざしが強かったからだろうか。