アッシリアの滅亡の原因について

伊藤政之助の『世界戦争史』の第一巻が、わりとアッシリアについて考察してあり面白かった。

それで、アッシリアがなぜ最盛期を迎えたあと、一気に衰退し滅亡したかについて、いくつか原因を考察してあった。

アッシリアは、紀元前627年にアッシュルバニパル王が没したあと、わずか18年で完全に滅亡している。
それまで1400年間続き、いちおう建前としては万世一系の117代続いてきた王家が、まさか完全に二十年足らずで滅亡するとは、当時の古代メソポタミアの人々も思いもしなかったのではあるまいか。

伊藤政之助が挙げるのは以下の理由である。

1、強制移住政策をとったため、首都周辺に異民族が多く、首都陥落の際もぜんぜん愛国心が存在せず、頼りにすべき自民族は遠方にいた。

2、スキタイやキンメリなど、騎馬民族の攻撃。

3、アッシュルバニパル王が文治政策に走った結果、文弱になった。

4、長年の宿敵だったエジプトを倒して征服してしまった結果、目標がなくなり気が緩んだ。

5、軍事大国だったため外交を無視し外交が下手だったため、危機に瀕した際に誰も助けてくれる国がなかった。


なるほど、一応もっともである。

しかし、著者は、これらは決定的にとは言えないと自ら述べ、最終的に、


※ 王が暗愚だったため。

という理由を挙げる。

116代国王のシン・シャル・イシュクンが、なにせ暗愚で、ニネベが二年間籠城している間も毎日酒池肉林で遊びふけり、最後は王妃とともに炎の中に身を投げて死んだそうで、その間、なんら出撃したり勝つための工夫をしなかったという。

やっぱり、一国の盛衰は結局指導者の資質によるのだろうか。

アッシリアの中には、しばしば傑出した国王がおり、117代の中の13人ぐらいは、なにせ戦争が上手で卓越した才能を持ち異民族を大征服したそうである。
長い歴史の中で、しばしば大雌伏期と呼ばれ、長い間アッシリアが地味な小国になる時代もあったが、そのたびにまた卓越した王が現れて盛り返したり、滅亡の危機に瀕しても名君のもとで復興を繰り返してきたそうである。

それが、最後の王があまりにもヘタレだったため、ついに完全に滅亡してしまったということだろうか。

こればかりは、人知を超えて神のはからいなのかもしれない。

ただ、たぶん、シン・シャル・イシュクンは暗愚だったのかもしれないが、それだけではない、そして上記の原因だけではない、他の要因もあったのかもしれない。
ただ、その原因がいまいちよくわからない。

あるいは、ローマの衰退の原因となった、格差社会や軍隊を担う中間層の崩壊などがあったのかもしれない。

アッシリア史は、やっぱり興味は尽きない。