最近、灰谷健次郎の『兎の眼』という小説を読んで、とても感動した。
なので、私の母にも勧めてみたところ、
なんと、母は二十年前に読んでとても良かったので、当時私に勧めた、とのこと。
まったく記憶にない。
二十年ぐらい前というと、高二か高三ぐらいの時で、忙しくて他のことでいっぱいいっぱいで、適当に生返事して聞き流していたのだろう。
どれだけ思い出そうとしても、さっぱりそんな話をした記憶がないが、そういえば、かすかに、小学校の若い女性の先生と子供たちとのことを書いた小説でとても良かったのがあって云々という話を聞いたような気もしてきた。
ときどき、人の話をきちんと聞いていない人を見ると、残念に思うことがあるけれど、ほかならぬ私自身がそうだったなぁと反省。
そういえば、これははっきり記憶として覚えているのだけれど、高校の頃、担任の国語の先生が持ってきていた、灰谷健次郎の『太陽の子』が、教室の後ろの方に誰でも読めるように置いてあった。
だが、結局、一度も読まなかった。
思い出すと、高校の頃の自分は、児童文学などを素直に読んで喜ぶ柔軟性があんまりなかったのかもしれない。
その後、いろいろ読んだり、いろんなことを経験する中で、素直に良いものは良いと思うようになったし、児童文学が大好きになった。
二十年、ずいぶん回り道したなぁ。
あと、これも、ふと思い出したことだけど、べつに付き合ったわけでもないし、ただの友達だったけれど、私が二十代の半ばころに、ときどきよく話した子が、灰谷健次郎が好きと言っていた。
べつに私に強く勧めたわけでもなかったし、私もそうなんだぁぐらいで聞き流していただけだったけど、ふとそんなことも思い出す。
人生を生きていると、何か大切なものが目の前を通り過ぎたり、耳に入っているのに、ぜんぜん気づかずに、気づくまで随分時間がかかることがあるのだと思う。
聖書にも、ローマのお偉いさんでガリオという人が、いつも素晴らしい真理や英知を聞きたいと願っていたにもかかわらず、ペテロがその地に宣教に来た時に、ぜんぜん気にとめず、たいした人物でもないと思い、適当にあしらっただけだった、という話が出てくる。
自分もまたガリオのようだったなぁと思う。
気づいてないところで、いっぱいそういうことがまだまだたくさんあるのだろう。
なるべく、気づいて、生きているうちに、人が勧めてくれた何か本当に尊いものや良いものを、しっかり受け取っていきたいとあらためて思う。