バーネット 「小公女」

小公女 (世界文学の玉手箱)

小公女 (世界文学の玉手箱)


私が小さい頃、『小公女セーラ』のアニメがあっていた。
裕福な家の少女・セーラが、ある日を境にお父さんも財産も一切を失い、寄宿していた学校で召使としてこき使われるが、明るく健気に生き、最後はお父さんの親友が見つけてくれてハッピーエンド、という物語は誰もがよく知っていることだろう。
テーマソングはよく覚えいたし、そうした大筋も覚えていたが、ほとんど細部は忘れてしまっていた。


なので、この前、同じ作者の『小公子』をなつかしくて読んだら面白かったので、この『小公女』も読んでみた。
すると、想像以上にとても面白かった。


原作を読んでいて興味深かったのは、主人公のセーラの想像力の豊かさと不思議な冷静さである。
もともと、没落する前から想像力が豊かで、いろんな物語を紡いではクラスメイトたちに語り聞かせてあげていた。
没落して屋根裏部屋に住む身になっても、ここはバスチーユ牢獄だと思ったり、いろんな想像によってみじめなつらいはずの生活を耐えられるものに、豊かなものに工夫している。
何かに「なったつもり」、あるいは何かが「あったつもり」。
そう想像して生きていく姿勢は、読んでいて素晴らしいと思った。


どんなにつらいことがあっても、自分は軍隊の兵士で、「長いつらい行軍」をいまやっているんだ、と思うセーラは、並みの男よりよほど忍耐強く勇ましい。
また、フランス革命の歴史が大好きで、バスチーユ牢獄の囚人や、あるいはマリー・アントワネットのことに思いを馳せる様子は、バーネットがこの作品を書いた頃はまだベルばらはなかったはずだが、ずっと後世の日本の子どもたちと通じるものがあるのかもしれない。
(アニメ版にそういうフランス革命史にセーラがはまっているシーンがあったのか、ちょっと覚えていない。)


誰もが「ひとりの人間」であり、恵まれているのも偶然、つらい境遇にいるのも偶然と心得て、かつての恵まれていた時も有頂天にならず謙虚で、没落してみじめな境遇でも誇りを失わないセーラは、十一歳ぐらいにしてすでに並みの大人より人生をよく理解していると読んでいて感心。
できすぎた良い子の気もする。
しかし、アニメの完全に良い子であるより、原作のセーラが面白いのは、ミンチン先生に対してけっこうシビアな観察眼も持っていて、内心ではかなり辛辣なことも思っているのが面白かった。
決して天使なだけではなく、駄目な大人を駄目だとはっきり認識して、嫌悪しているところが、アニメ版よりも原作のセーラの良いところだと私には思えた(その分、完璧な天使のようなキャラというわけではないのかもしれないが)。


どんなに貧しくみじめでも、自分は「公女」、プリンセスなのだと思い、誇りを失わず、気品と心の豊かさを持って生きようとする姿勢は、他人からは滑稽に見えたのかもしれないが、セーラほどに貫き通すと、本物のことになってくるということなのだろう。


「わたし―それよりほかのものには、なるまいとしたのです」
"I—TRIED not to be anything else"


つまり、誇りを持ったプリンセス以外のものにはどんなに境遇がみじめでもなるまいとした、と言うセリフは、誇大妄想や生意気の域を超えて、何か人生の真実を教えられるような、胸打たれるものがあった。


私も、自分として、そういう風に思い、そういう風に生きていきたいなぁとあらためて思った。


あと、アニメ版にそういうシーンがあったのかさっぱり覚えてないのだけれど、たまたま道ばたで少しの小銭を拾い、しかもお腹をすかせてそうな浮浪児が近くにいて、パン屋に行ってその小銭でパンを六個手に入れるが、自分もろくな食事を日々もらっていなくてお腹がぺこぺこなのに、自分は公女だと自分に言い聞かせて、そのうちの五個のパンをその浮浪児にあげるシーンは、究極の瘠我慢と思えて、自分も真似したいと思った。


小公女セーラは、本当に人生の書だとあらためてしみじみ。
アニメ版の主題歌も、youtubeで久しぶりに聞いたが、歌詞が良い歌詞でしみじみ人生の歌だと感動した。


小さい頃に見た児童文学の名作は、本当に良い作品が多いものである。