ヘッセ 「クヌルプ」

クヌルプ (新潮文庫)

クヌルプ (新潮文庫)


先日、ヘッセの『デミアン』を読んで感銘を受けたので、何の気なしに、どういう物語かも知らず、『クヌルプ』を読んでみた。


最初のうちは、というより、全体の四分の三を過ぎるまで、正直、なかなかこれが名作と本当に思える作品になってくれるのかわからずに読んだが、ラストが本当に素晴らしくて、思わず涙。


デミアン』とはまた違った意味で、私にとって特別な作品となった。


『クヌルプ』の主人公のクヌルプは、今でいうところのニートだろうか。
定職にもつかず、結婚もせず、ぶらぶらしている。
傍観者としてこの世間を眺めているだけだが、人づきあいはそれなりにあって、友人たちは誰もがクヌルプを好きで、クヌルプに親切で、旅先で泊めてくれる人に事欠くことはない。
たまたま旅先の町で出会った女の子に声をかけ、楽しくダンスを踊ることなんてこともある。
第一章では、そんな若き日のクヌルプの日々が、第二章では、クヌルプといろんな話をする友人が、クヌルプがある日突然いなくなってしまい寂しい思いをすることが描かれる。


第二章の途中では、以下のような言葉があり、印象深い。


「人間はめいめい自分の魂を持っている。それをほかの魂とまぜることはできない。ふたりの人間は寄りあい、互いに話し合い、寄り添いあっていることはできる。しかし、彼らの魂は花のようにそれぞれの場所に根をおろしている。どの魂もほかの魂のところに行くことはできない。行くのには根から離れなければならない。それこそ出来ない相談だ。花はたがいに一緒になりたいから、においと種を送り出す。しかし、種がしかるべきところに行くようにするために、花は何をすることもできない。それは風のすることだ。風は好きなように、好きなところに、こちらに吹き、あちらに吹きする。」


第三章では、年をとったクヌルプが、もはや精も根も尽き果てて、故郷をめざして歩いている時に、今は医者になっている小さい頃の友人がたまたま出会って、介抱する。クヌルプは感謝しつつ、その友人のところからも発ち、最後は故郷をめざして雪の中を歩いていく。


そこで、神と心の中で話す。


自分はどこから人生を間違えたのだろう。
若い時は、いくらでもまた再出発できたはずだった。
もつれた糸はもはやどうしようもなく、すべてが無意味だった。
そう思い、悔恨に苦しむクヌルプに、神はこう諭す。


本当に無意味だったと思うのか?
すべて、素晴らしい、輝いた日々で、それらなかったとすれば、後悔せずにはいられないのではないかと。


クヌルプは、たしかにそうだと思う。


かつて、結婚しようと思った二人の女性がいて、決して別れるとは思わなかったが、結局別れてしまった女性のことについても、神はその時は本当に幸せだったのではないか、幸せでなかったわけではないのではないか、と尋ね、クヌルプはそうだったと思う。


そして、以下のようなことが述べられる。


「「さあ、もう満足するがいい」と神様は諭した。
「嘆いたとて何の役にたとう?
何ごとも良く正しく運ばれたことが、何ごとも別なようであってはならなかったことが、本当にわからないのかい?
本当にお前はいまさら紳士や職人の親方になり、妻子を持ち、夕方には週刊誌でも読む身になりたいのかい? 
そんな身になったって、おまえはすぐまた逃げ出して、森の中でキツネのそばに眠ったり、鳥のわなをかけたり、トカゲをならしたりするのじゃないだろうか。」」


「「いいかい」と神様は言った。
「わたしが必要としたのは、あるがままのお前にほかならないのだ。
私の名においてお前はさすらった。
そして定住している人々のもとに、すこしばかり自由へのせつないあこがれを繰り返し持ちこまねばならなかった。
私の名においてお前は愚かなまねをし、ひとに笑われた。
だが、わたし自身がおまえの中で笑われ、愛されたのだ。
お前は本当に私のこども、わたしの兄弟、わたしの一片なのだ。
わたしがお前と一緒に体験しなかったようなものは何ひとつ、おまえは味わいもしなければ、苦しみもなかったのだ。」



不覚にも、これらのメッセージには、思わず涙がこぼれた。


本当に、人はそのようにしか生きれず、またそのすべてが無駄なことではなく、確かに意味のあることだったのかもしれない。
そして、どのような人生も、神のひとかけらなのかもしれない。