フランクル 「夜と霧」

夜と霧 新版

夜と霧 新版

いつかはきちんと読もうと思いながら、なかなかきちんと読めていなかったので、今日決着をつけようと思ってフランクルの『夜と霧』を読破した。


読後感は、想像していたのとかなり異なるが、深い感動が胸中に広がった。


何度か読もうと思って手にとったことはあったのだが、今まで挫折してきた理由は、以下の三つの理由があった。


ナチスによるユダヤ人収容所の体験というのが、重くてつらそうで、読むに堪えない。
・よく心理学、特にトランスパーソナル心理学などで、その引用や抜粋が行われているため、なんだか理屈っぽい話かと思い敬遠。
・その抜粋と関連するのだが、人生に何かを求めるのではなく、人生が自分に何を求めるのかを考える、という姿勢が、なんだかあまり共感を得られなかった。


というわけで、読む前からなんとなく敬遠して、ぱらぱらと手にとる程度で今まで来てしまったのだけれど、今回読み終えた感想は、読む前に思っていたのとかなり違う。


ひとつは、たしかに非常につらい体験で、あまりにもひどいとは思う一方で、ジュリアス・レスターの『奴隷とは』における黒人奴隷の経験や、あるいは戦時中の日本軍の内務班のいじめや、あるいは親を失った子どもたちの飢餓などに比べれば、さほどこれといって突出してひどい体験ではないと思ったことだ。
このように言えば、ユダヤ人の人々は怒るかもしれないが、これはそれほど特異な体験ではないし、程度の差こそあれ、どの民族や社会にも、なんらかの形でしばしば起こりうることなのだと思う。
だからこそ、普遍的なものとして、意味のある記録なのだと思う。


ふたつめは、叙述が非常に具体的だということだ。
よく引用や抜粋されているものと全然異なり、記述のひとつひとつが非常に具体的で、迫真のルポルタージュという感じで、その点が非常に読んでいて、語弊を恐れずに言えば、面白かったし、共感させられた。
空理空論ではなく、具体的な体験であり、心理学というよりも、歴史の一つの体験談として、この本は非常に興味深いと思う。
よく言われるような心理学的考察というのは、最後の方で、極めて具体的な叙述の中でなされており、決して抽象的なものではない。
そのため、非常に納得がいき、胸を打つものとなっている。


みっつめは、私にとっては、よく言われる、人生に何かを求めるのではなく、人生が何を自分に求めているか、という視点は、たしかに考えさせられるし、それはそれで貴重なものだと思うのだが、フランクルが同じ収容者仲間に停電の日に語りかけたという、「誰かの促すようなまなざし」が常に私たちにはそそがれており、失望させないように、誇りを持って苦しむように、そのまなざしが促している、という話の方が、とても胸を打たれたし、腑に落ちた。
この「まなざし」を、フランクルは、注意深く、それは具体的な誰かであってもいいし、神と思う人もいるだろう、ということを述べているが、そのとおりで、この「まなざし」の論点は、何もフランクルの独創でも新たな発見でもなく、古来から語られている、「神のまなざし」のことなのだと思う。
それゆえ、とても胸を打つし、普遍的な、深い内容だと思う。
しばしば、トランスパーソナル心理学などが、フランクルの「発見」ということを持ち出す場合があるけれど、私はそのようなことはかえって、フランクルの述べていることの深見や真実を損なうのではないかと思う。
むしろ、フランクスは、極限状況において、本当の意味の「信仰」、つまり「まなざし」の意味や力に出遇ったのだと思う、ただそれを、わりと客観的で控えめな注意深い表現で述べたのだと思うが、それは決して「新しい」ものではなく、古来からの「普遍的な」問題であり真理だったのだと思う。


「人間とは常に何かを決定する存在」だというフランクルの言葉も、とても印象的だった。


脆弱な人間とは、自分の内側により所を持たない人間だという指摘も。
そして、どのような集団にも、まともな人もいれば、まともでない人もいるという指摘も。


フランクル自身が平明な言葉で述べているように、人生というのはあまり難しい言葉や理論はいらず、要は「まなざし」をしっかり感じる心と判断基準を自分の内側に持つことと、その「まなざし」との対話を自分の内側に深めていくことなのだと思う。
それこそが、「まともな人間」であることのよりどころであり、心の内側の成長ということなのだと思う。


この古くて新しい、永遠の真理を、自らの体験と言葉から紡ぎ出しているこの名著は、やはり多くの人に、なんらかのフィルターなどを通さずして、自分自身の魂の糧として、しっかり読んで欲しい名著だと、今回あらためて読んで思った。