雑感 渇きについて

先日、本屋でぱらぱらと立ち読みしていた本の中に、谷川俊太郎の「渇き」という詩が引用してあり、なるほどと深く感に堪えないものがあった。


谷川俊太郎 「渇き」


水に渇(かわ)いているだけではないのです
思想に渇いているのです


思想に渇いているだけではないのです
愛に渇いているのです



愛に渇いているだけではないのです
神に渇いているのです



神に渇いているだけではないのです
何に渇いているのか分らないのです



<水ヲ下サイ 水ヲ……>
あの日からずっと渇きつづけているのです



本当にそうだなぁと思う。


山本周五郎の未完の絶筆になった小説のタイトルは、「おごそかな渇き」というタイトルだった。


人は、何かしら心の中に、「おごそかな渇き」とでもいうべきものがあるのだと思う。


聖書や仏典や、すぐれた古典文学などは、その渇きを癒してくれる。
特に、福音書は、不思議とこの渇きを潤してくれる。


人によって、この「渇き」はいろんな形態をとるかもしれないし、「おごそかな渇き」ではない、もっと形而下のものへの渇愛ばかりに衝き動かされている人も多い。


しかし、その人がどのように意識しているかどうかは別にして、言葉にならぬところで、この渇きは大なり小なり、人の人生を衝き動かしているのではなかろうか。


そして、自分が本当に何を求めているのかわからない場合、その代償に、形而下のものを求めたりするのだと思う。


きっと、この「おごそかな渇き」が何に渇いているのかに気づき、本当の命の水にめぐりあい、素直に飲む人々のことを、山上の垂訓などでは「幸いなるかな」と形容したのだろう。


回心というのは、要はそういうことなのではないかと思う。


そう思って読むと、


「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
ヨハネによる福音書 四章十四節)


この言葉は、本当に深い一節だと思う。