その働きを知ればこそ

福音書を読んでいると、本当に短い言葉で、宗教的な最高の真理が書かれていて、いつもただただ驚嘆するばかりだが、今日はヨハネによる福音書を読んでいて、以下の言葉にとてもうならされた。


ヨハネによる福音書の第5章の第17節。


“My Father is always at his work to this very day, and I too am working.”


「わたしの父は今もなお働いておられる。
だから、わたしも働くのだ。」



つまり、


神は今現に生きて働いている存在である、
それゆえに、私も働かずにはいられない、


という意味だと思う。


安息日に病を癒したことで文句を言ってきた人々に対して答える中の一節だが、これは本当にすごい言葉だと思う。


たとえば、浄土真宗においても、阿弥陀如来は「今現在説法」の、つまり今現に人々を救うために生きて働いている存在だとされている。


しかし、あんまり浄土真宗で、「如来が今なお働いているから、私も働かずにはおられない。」という言葉や生き方を見たことがない。
昔はそういう人もいたと思うのだが、今はいったいどれだけいるのか。
中にはそういう人もいるだろうけれど、大半はどこか如来の働きを他人事のように眺めて、自分はぼーっとしているのが多くの姿だと思う。


老荘思想儒教においても、道や天の働きを言うが、では道や天が働いているから自分も働かずにはおられない、という発想があるかというと、どうも乏しい気がする。
二宮尊徳のように稀にはそういう人もいたとは思うが、たいていは道の働きを自分とは無関係にぼーっと眺めているか、天の働きを忘れて人為だけに狭い了見でつとめるかのどちらかになりがちだった気がする。


このイエスの短い言葉は、実に無限の味わいのある、天才以外述べることができない言葉と思う。


この言葉の心には、神、あるいは宇宙の働きとでも言えばいいのだろうか、そういったものの恩への限りない感謝と認識が生き生きとあり、そうであるがゆえの、自発的な自律的ないのちがある。


もし真に、この恩に徹底して思い至った人は、そのために働かずにはおれなくなるのだろう。


後世の我々もまた、イエスが現に生きて働いていることへの感謝に徹底して、働かずにはおれないという境地にならぬ限りは、本物からは程遠いのかもしれない。