マーク・トウェイン 「トム・ソーヤーの冒険」

トム・ソーヤーの冒険 (新潮文庫)

トム・ソーヤーの冒険 (新潮文庫)


マーク・トェインの『トム・ソーヤーの冒険』は、小さい頃アニメ化されているのを見た。
それから随分時が経って、ふとマーク・トウェインに興味を持って、今更ながらしっかり読んでみた。


読んでいて驚かされたのは、とても文章がvividといえばいいのだろうか、生き生きしていて溌剌としていることである。
読んでいて何度も笑わされるし、面白い。


1830〜40年代頃の、アメリカのミズーリ州の田舎町が舞台。
子どもたちの今も昔も変わらないおかしな様子や、大自然の中での日々が、限りなく生き生きと描かれている。
こじんまりとした町は、窮屈な面もある一方で、何かあればまとまる良き共同体でもある。
大人たちも滑稽な面もあるけれども、それなりに大人として頼りになるところもあるし、子どもたちへの深い愛情がある。
子どもたちも、無鉄砲で馬鹿げたことばかりやる半面、とてもかわいらしい面もある。


なので、昔アニメを見ていた時はそう思ってみていたのだけれど、表面的に見れば、この作品は何の屈託もない明るい少年の楽しい生活を描いた文学作品、ということになるのだろう。


しかし、先日、マーク・トウェインの『人間とは何か』を読んだ上で見てみると、若干違う見方ができる気がする。


『人間とは何か』に現されたような、マーク・トウェインの人間への悲観的なものの見方や、人生や人間のどうしようもない部分への洞察は、一説にはトウェインが他人の膨大な借金を背負うことになったことがきっかけだったという。
しかし、もう一説には、そのずっと以前、人生の出発点の頃から、もともとそういう性格があったという見方もあるそうである。


もし後者の立場に立つのであれば、『トム・ソーヤーの冒険』は、決して屈託ない明るい人物が描いた作品ではなく、世の中の矛盾や人間のどうしようもなさをよくよく見つめていた人が描いた作品であったとして読むべきなのかもしれない。


トム・ソーヤーの冒険』は、1876年に完成しているが、作品の舞台はその三〜四十年前とされている。
この間にアメリカにあった大きな出来事は、もちろん南北戦争である。
南北戦争では、六十万人以上が死亡。
当時のアメリカの人口はおよそ三千万人だから、だいたい五十人に一人は死んでいるわけで、家族親戚や知人友人の誰かは誰でも死んでいたことだろう。
それに、南北戦争後は、世の中は資本主義化や都市化が進んだり、田舎では物騒なKKKの暴力が吹き荒れたり、戦争の傷と合せて、とてものどかとはいえない世の中に急速に変わっていったようである。


マーク・トウェイン自身も、南軍の兵士として一時期従軍し、ケガを理由に半ば脱走に近い形ですぐに戦線を離れているようである。
南北戦争後は、社会を覆う金権体質を痛烈に風刺した作品も書いたそうだ。


なので、そうしたことを考えれば、『トム・ソーヤーの冒険』に描かれる明るく楽しい世界は、もはや失われたもので、失われものだからこそ、なおのこと美しく透明に描かれていると言えるのかもしれない。


ルノワールは、人生はあまりにも悲惨なのでせめて絵だけは美しく幸せなものを描きたい、と言ったという。
マーク・トウェインも、若干似たような気持から、わざと明るい世界を作品では描いたと思う。


実際、『トム・ソーヤーの冒険』の主人公のトムは、母親はすでに亡くなっていて、母の姉のポリー伯母さんに育てられている。
父親も一度も登場しないところを見ると、どうもすでに亡くなっているらしい。
しかも、弟のシドは、母親が違うという設定である。
親友のハックは、トム以上に家庭的には恵まれず、父と母はいさかいばかり以前していたことと、今はほとんど浮浪者同然に暮らしていることが語られる。


しかし、トムもハックも少しもわが身の不幸を嘆くことは一度も無く、いたって明るく楽しく日々を過ごしている。
それは、ポリー伯母さんなど周囲の大人たちがしっかり愛情をそそいでいることもあるかもしれないが、人生がどうしようもなく寂しいものであったり、どうにもならないことがあることもわかっているからこそ、一々そうしたものを嘆くこともなく、ひたすら明るく過ごすというのが、トムやハックの性格ということなのだと思う。


そうした観点から読むと、この作品の明るさは、より一層胸に迫るものがあると思う。


また、この作品には、あまり多くは登場しないのだけれど、何カ所か黒人奴隷が登場する。
しかし、南部のプランテーションと違って、西部なので家の使用人といった感じだったようである。
ハックはその中の一人と友人であることも作中に語られる。
あまり多くは語られないが、ハックらの子どもにとっては、あまり奴隷制の問題などは意識されないと同時に、屈託なく友達として過ごす一方で、そのことに若干世間の目を意識すると誤解を受けるかもしれない心配をしているところも微妙に描かれている。


黒人奴隷以上に、この作品でもっと前面に出てくるのは、インディアンと白人の混血の出身で、かつてひどい目に遭わされたことから復讐を目指しているインジャン・ジョーである。
インジャン・ジョーをどう見るかで、この作品の読み方はだいぶ変わってくるのかもしれない。


はっきりとは書かれないが、洞窟の中で、トムをインジャン・ジョーが見つけたけれども、襲って来ず、別のところにインジャンが逃げて行ったこと。
そして、インジャンが洞窟に閉じ込められたことをトムが驚いて大人たちに知らせることは、深読みをすれば、インジャン・ジョーが子どもには危害を加えない優しい存在であることと、トムもそれをわかっていたということなのかもしれない。


そして、インジャン・ジョーがあのように怒り、非業の死を遂げざるを得なかったことに、本当は、もっと時が経てば、その当時はただ怖かっただけかもしれないけれど、トムたちも心の痛みを覚える時が来るのかもしれない。
その含みも、この作品には、深読みをすれば、あるのかもしれない。


一般的には、『ハックルベリイ・フィンの冒険』の方がマーク・トウェインの作品としては文学史上の評価は高いようだし、単に一般的には明るい児童文学として読まれることが多いようだけれど、深読みするとまた違う相貌が『トム・ソーヤーの冒険』にはあるのではないかと思えた。


あと、この作品を読んでいて、心に残ったのは、以下の文章。


「こうして二人はまた動き出した―あてもなく―まったく当てずっぽうに―とにかくできるのは動くこと、動きつづけることだけだった。
少しのあいだ、希望が蘇ったように思えた。
それを支える根拠はなかったけれど、希望とはそういうものだ。
人が歳をとり、挫折に慣れっこになってしまってその弾力が潰えてしまわぬかぎり、希望はいずれまた息を吹き返す。」


これは、単なる楽観や楽天でもなく、かなりペーソスが入っていながらも、なお希望を不思議と人の心に呼び起こしてくれる、そんな文章だと思う。