- 作者: 佐渡谷重信
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1990/03
- メディア: 文庫
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この本、随分昔に古本屋で買って、ずっと本棚に眠っていたのだけれど、最近読み始めたらとても面白かった。
この本では、縦横無尽に明治や大正の頃の人物や書物を具体的に挙げながら、いかにアメリカの思想や文学、特にエマーソンやホイットマンやソローが、日本に大きな影響を与えたかを論じている。
明治には、中村正直や徳富蘇峰や北村透谷、さらには時代が下っては高木八尺らにエマーソンは受容された。
また、ホイットマンは、夏目漱石、内村鑑三、有島武郎、武者小路実篤、白鳥省吾らに読まれ、特に大正の頃は白樺派や民衆詩派に大きな影響を与えた。
ソローも、内村鑑三や西川光二郎らにとって生きる指針となった。
この本では、生き生きとそれらの歴史が書かれ、よくまとめてあった。
著者が言うには、もともとエマーソンやホイットマンやソローらは、仏教や儒教やヒンドゥー教の古典を愛読しており、東洋思想的な要素があった。
それゆえに、明治になってから、多くの日本人が共鳴する素地があり、実際、彼らの思想を大乗仏教や陽明学との関連から論じる日本人も多かったそうである。
と同時に、エマーソンやホイットマンやソローらは、当時の日本にはなかなか確立されていなかった、自立した個人の思想をよく現しており、その点が日本人にとって新鮮であり、自己の確立に際して大きなインスピレーションを与えたようである。
著者は、自由民権運動がなぜ失敗したかということについて、自由の思想的な深い把握に欠けていたことと、一般大衆の理解と協力を得る努力が欠けていたことの二つを指摘する。
なるほどと思った。
そして、その反省や意識に立って、おそらく明治後半や大正の多くの日本人が、エマーソンやホイットマン、ソローを読みふけったのだろうと、この本を読んでいて思えた。
しかし、徐々に日本の国家主義が強化されるにつれ、特に昭和になっていくと、ホイットマンやソローらは危険思想のような扱いを受け、読まれなくなっていったらしい。
著者が言うとおり、戦後の日本は、一見アメリカと深く結びついたように見えて、ただアメリカの物質文明を余裕もなく摂取したばかりで、本当の意味でアメリカの精神文化をきちんと理解し受用したわけではないのだろう。
ホイットマンやソローらがアメリカの物質文明を批判したように、仮にアメリカの現実にある負の側面を克服しようと思うならば、参考になるのはアメリカの中のこのような精神文化なのかもしれない。
そして、それはまた、エマーソンもホイットマンもソローも東洋の古典を愛読していたように、特定のどこの国かにこだわる必要のない、世界的な古典というものなのだろう。
もう一度、エマーソンやホイットマンやソローは、日本人にとって熟読されるべき存在なのかもしれない。